21世紀に南米の地に新たな共産国家を誕生させたニコラス・マドゥロ大統領(55歳 以下、敬称略)は歴史に残る傑出した人物なのかもしれない。チェ・ゲバラもウーゴ・チャべスも不可能だったことを成し遂げたのである。
だが、現実の評価はあまりにも低く、スペイン語圏ではマブゥロ(ロバから派生した「とんま」の意味)と揶揄されている。カリスマ性なし、知性なし(?)、人気なし。その上、元軍人ではなく、インドのサイババ信者である。
なぜ独裁者として君臨できているのか? 不思議だ。
憶測を呼んだ出生の謎と奇妙な言動
ニコラス・マドゥロが後継者としてチャべスに地位を禅譲されたとき、国民の多くは閣内ナンバー2のディサード・カベ―ジョが大統領に指名されると考えていた。すぐに教養層から批判が出た。
「無教養なマドゥロが大統領だって、国民として恥ずかしい」
ラジオからは時期でもないのにクリスマスソングである陽気な音色のガイタが流れてきた。
ーまさか、おら、死ぬとは思わなんだ。死ぬならばニコラスを指名するようなバカな真似はやらなんだ! アイアイアーイ!ー
ベネズエラ人でもその歌を聞いた人は少ない。すぐに発禁となってしまったのだから。次に問題となったのは、「マドゥロはコロンビア生まれだという」主張である。彼の母親はコロンビア人である。
息子のマドゥロもベネズエラとの国境の街ククタで生まれている。が、コロンビアの役所でキューバの諜報機関(G2)が出生証明書を廃棄したか、改竄したのだ。
そんな噂が出回った。
ベネズエラの憲法では国外生まれの人間は、大統領、副大統領、国会議長、最高裁判事などの要職に就くことはできない。しばらくたって政府はカラカスのカンデラリア管区で発行されたマドゥロの出生証明書を提出している。それの真偽も問われるが、人の噂も49日で問題はうやむやのまま終わってしまった。
さらに、次のようなエキセントリックな発言が国民にたびたび揶揄されている。
チャべス死後の会見でたまたま窓にとまった小鳥を見て、「あれはチャべスの生まれ変わりだ」。遊説時に「犬まで私に挨拶しているよ」。牛の品評会で「牛さん、君たちは野原の聖人だ。私は制憲議会を開くよ。手伝っておくれ」。
マドゥロは輪廻転生を信じているのだ。インドの聖者サイババの敬虔な信者だからである。2人の誕生日が同じ11月23日であることも影響しているのかもしれない。彼は家族とともに何度か生前のサイババに会うためにインド巡礼の旅に就いている。
政治的出自
マドゥロは中学生のころから、学生活動家だった。父親が民主行動党の委員で、幼少時には選挙運動をする父親に連れられていた。一方、70年代に青春時代を過ごした者にはありがちだが、ロックバンドのメンバーとなって、ジミーヘンドリックスを真似てギターを奏でていた。
さらにチャべスが大リーガーを夢見た以上に、巨漢のマドゥロは少年野球のベネズエラ代表ピッチャーであり、スカウトの目にとまり、大リーグを目指すルーキーリーグに契約をしないかと声を掛けられていた。もし、チャべスやマドゥロが野球の道に進んでいたらならば、少なくともベネズエラはこれほど悲惨な国にはならなかったであろう。
ピッチャーのマドゥロは、官憲に遠くから石を投げつけ、催涙ガス弾を拾い返して投げるのが得意だったという。現在は逆の立場で学生たちを弾圧し、時に実弾で殺すほうに回っているのだから、皮肉だ。
左翼へと惹きつけられる背景
中南米では、本来右寄りと思われる軍人までが反米・左翼となる。最大の影響は1973年のチリで引き起こされたクーデターにある。CIAの後押しをうけたピノチェトが、選挙で選ばれたアジェンデ社会主義政権を武力で倒し、反対派3000人を虐殺した。それに怒りを覚えた中南米の人間は多かったのである(参考:「憲兵に真夜中に尾行され、銃口を突きつけられる」)。
筆者の同僚にもその煽りを受けてベネズエラに逃げて石油関連の仕事についているチリ人がいた。その企業では唯一といっていいチャべス派で、私が「チャべスはアルゼンチンの社会主義・独裁者ペロンの再来だな。ろくなことにならないよ」と言うと、怪訝な顔をしていた。
ベネズエラに逃げたのは理由があろう。産油国には神風だった73 年、79年の2回のオイルショックを経て、当時ベネズエラは南米一繁栄し、最も民主的だった。第一期カルロス・アンドレス・ペレス大統領(1974~79)の時代で、筆者は日本から南米にオーディオを輸出する仕事に就いていたが、一番の稼ぎ頭はベネズエラだった。この時代にペレスは石油産業を国営化している。
一方、左翼の活動は弾圧されていた。1976年にはベネズエラの誘拐史上、最大の事件が発生した。アメリカのガラスメーカーであるオーウェンズ・イリノイのベネズエラ支店長ウィリアム・ニェオス(William F. Niehous)が誘拐された。当時、ベネズエラの米国大使は、チリのクーデター時に暗躍したハリー・スラウデマン。ウィリアムはCIAのエージェントだと推測されていた。
その誘拐の背後にいたのは、マドゥロが属した社会主義リーグ(マルクスレーニン、毛沢東主義)の創始者ホルヘ・ロドリーゲスだった。彼は官憲に捕らえられ、拷問により獄中死した。その息子は現在、カラカス市長になっている。なお、ウィリアムは3年後にベネズエラ南部のジャングルの中で偶然発見され生還した。
そんな時代背景の中で、マドゥロは音楽や野球よりも、政治活動にのめりこんでいく。15歳で学生運動を組織し、極左の革命党とも関係し、77年に高校を退校処分され、別の学校にうつっている。