2024年12月2日(月)

WEDGE REPORT

2017年8月5日

 インパール作戦の少ない生き残りの兵士の中には「ビルマ好き」になる者が多い。そんな1人、故高原友生氏(以下敬称略)は陸軍士官学校57期の出身。無謀・無責任な牟田口廉也中将の立てた同作戦の連隊旗手・連隊暗号の責任者で、『悲しき帝国陸軍』(中央公論)の著作もある。そのおかげで、筆者は軍事独裁政権時代(1988~2015)に何度かミャンマーを調査に訪れる機会があった。彼は以前私が所属した研究所の会長だった。最初仕事は困難を極めた。

マンダレーのアマアプラウーベイン橋を渡る僧侶たち

監視される役人

 機上から見下ろすと、大地は水々しい緑の水田に覆われていた。目に優しく心がふっと膨らんでいく。ところが、飛行機が降り立った滑走路は、ぺんぺん草が生い茂り、所々アスファルトが禿げていた。2度目の出張からは空港でドルの強制両替も行われるようになった。

 訪れたヤンゴンやマンダレーの街中では、賑やかな音楽とともに得度式(=子供が仏門に入る儀式)の行列が行き交い、女性は日傘をさしてゆっくりしゃなりしゃなりと歩く優雅な国であった。

 仕事は電話網にかかわる調査案件だったが、思いがけない困難が待ち受けていた。筆者の属する調査団は、電信省の会議室でカウンターパートの官僚たちをいらいらしながら待っていた。彼らが現れないので、日本を出る前にアレンジしていた会議は2度も流れた。

 役人は外国人と会うのにさえ、政府の許可が必要だった。国家防衛法では外人を泊めることもできなかった。あちこちに密告網が張り巡らされ、国民、とりわけ役人の行動は監視されていた。また、我々のホテルの電話は盗聴されているといわれていた。

 まだアウンサンスーチーはインヤレイクの畔の家に幽門されていた時代である。欧米の制裁で、人道支援を除きODAは止められていた。

日英の市街戦が行われたマンダレーの王宮

英雄の退役軍人は反軍政

 そのときに我々調査団のために動いてくれていたのは、高齢だが矍鑠たるビルマ族の退役軍人で、流暢な日本語を話し、日本名も持っていたK氏だった。軍事政権を毛嫌いして、政府高官にも耳の痛いことも言っていたようだが、軍人たちも先輩を牢屋に入れるようなわけにはいかなかった。アウンサンと同様にミャンマー独立の志士「ビルマ三十人」に連なる英雄の1人だったのである。

 ある日、Kはずいぶんと恰幅のよいおばさんを宿泊するホテルに連れてきた。「だんなが反体制派で牢屋に入れられているんだよ。その間、宝石を売って糊口を凌いでいる」

 夫は以前通信省の大臣か次官だったと記憶する。そういわれると、財布のヒモを緩めないわけにはいかない。彼女が持参したルビーと瑪瑙を購入させられてしまった。名字がないことも影響しているのか、ミャンマーの女性は自立心が強いとの印象を持った。

 そのうち、やっと役人に許可が下り、調査活動が流れはじめた。当時、通信省の事務次官は威圧的な軍人で、大臣は人当たりのよい民間人だった。

心情は軍事政権とともにある

 テレビを見ていて今さらながら知ったが、ミャンマー軍の行進曲は軍艦マーチである。アウンサンが参加したビルマ独立義勇軍は、日本軍の南機関の支援のものと設立された。ある意味、高原と出自はいっしょなのだ。だからなのか、軍と対立するアウンサンスーチーを毛嫌いしているようだった。

 イギリスの「分割して統治せよ」の最大の成功例はビルマである。インド人や華僑を入植させ、カレン族やカチン族はキリスト教化し、ビルマ人をその下に置いた。だからこそ、アウンサンらにとっては日本軍の支援は救いだった。今になって、国家の分断の芽を植え込んだイギリスやその同類のアメリカがミャンマーの軍政を非難し、経済封鎖をしたり援助を停止するのは偽善である。そのイギリス人と結婚し、欧米と同調するアウンサンスーチーは許せない。

 日本のビルマ好きたちの心情はこのようなものだったと思う。またそのような考えに外交官やビジネスマンの一部は同調していた。

 戦争時に高原ら若い士官、兵は蒋介石の補給路(援蒋ルート)を断つためにインパール作戦に動員されたのだが、心の底にはインドの独立やミャンマーの独立のためにイギリスと戦うという気概があったに違いない。だが、大本営は傀儡政府の樹立が目的だろう。

 若者と老人、政治家と軍人、部下と上官、駐在員と本社、部下と上司-付き合う人間が違うのだから見ている景色も違う。下っ端のサラリーマンだった私には、役人や国民が監視されるような社会がいいとは、とても思えなかった。


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