ミャンマーの娘たちにクローニー(縁故)資本主義を見る
ホテルの前には、何でも屋のキオスクがあった。ある朝、店の持ち主の中年の女性に手招きされ、トウモロコシを一本もらった。物欲しそうな顔をしているといいことがあるものだ。
彼女の中学生と専門学校に通う娘たちとも知り合い、出張のたびに週末に一緒に出かけるようになった。動物園、カートのある遊戯所、パゴダ、ミャンマー式カラオケレストラン、水上寺院。末娘は英語を学び、長女は中国語を学んでいた。知り合った頃は父親も一緒だったと思うが、翌年訪れたときには、母親は離婚し、一家は祖母と新しく購入したマンションに住んでいた。
キオスクも経営していたが、一家はもっと儲かるビジネスを始めていた。ポリタンクに入れたガソリン(軍政から横流しされた)を通りかかる車に販売していた。相当潤っていたのではないか。姉はロンジーではなくジーンズをはいていた。家のテレビもカラーになっていた。でも、ニュース報道が流れると、弟たちが「うそばっかりさ」と顔を顰めて言ったものだ。
一度、姉にシンガポール系のホテルに「夜、音楽を聞きに行かないか」と誘ったが、「遅くなるのは無理だわ。朝早くお坊さんがくるからご飯を作らなきゃいけない」という返事だった。パゴダへの寄進や托鉢僧への喜捨は日常であったし、名誉なことだった。筆者の汚い心が洗われるような気がした。
2年後に情報通信関連の調査で訪れたときは、政府は情報化推進のためのキャンペーンを張っていた。機材を学校などに寄付することがむしろ名誉になっていた。元教授が設立したコンピュータスクール、元鉱山技術者のハ―ド・ソフトウェアの販売会社など、民間企業がにょきにょきと設立され始めていた。いずれも政府となんらかのイイ関係にあった。
翻って見ると、日本の明治時代も官営事業の払い下げなどの特権を得た政商が現在に繋がる大企業の地盤を築いたのだから(今の日本はまさかクローニー資本主義ではないだろうが)、資本主義の初期段階はそのようなものなのかもしれない。
当時、アメリカはビルクリントン政権下、経済制裁を続けていたが、ヤンゴンのある国立大学の学長の机の上には、アメリカ大使館からのレターが置かれていた。
「アメリカ人の研究者たちが訪問したいそうだよ」
学長はそういって破顔した。外交とはこういうものであろうと、妙に納得した覚えがある。
日本への帰路、飛行機の中で、日本語を学んでいるカチン族の若い女性と知り合った。カレン族と同様にキリスト教徒だった。その後日本で時々会う機会があった。そのうちやはり日本で学んでいるカチン族の男性と結婚することになった。
筆者は請われて彼女の両親の身元保証人になり、ヤンゴンの領事にビザ入手のためにかけあった。目出度く訪日でき、筆者も日本で結婚式に出たが、出席者はカチン族ばかりだった。
「多民族だから」は言い訳でしかない
ミャンマーには、ビルマ族、カチン族、カレン族、チン族、カヤー族、シャン族、ビルマ族、モン族、ラカイン族、ロヒンギャ族など135の民族がいる。
筆者が調査によく訪れた1993~96年にかけては、軍政からは、憲法を制定し民主化するという果たされない掛け声だけが聞こえてきた。「多民族国家だから軍政でなくては難しい」。そう政府がよく言っていた。
けれども、多民族国家インドは長らく民主政権である。たとえ民主化され文民統制されても軍は存在する。日本でも、ミャンマーは民主化されたので民族紛争が起こった、などと書かれている最近の書籍もあるようだが、軍政の時代から民族紛争はある。むしろその時代のほうが国軍はカレン民族解放軍などの他民族と始終戦っていたのである。今は和平協定が結ばれている。
軍政の本音は、利権を手放したくないということだろう。日本の外交・ビジネス関係者もすでにつかんでいる人脈のほうが、仕事を進めるのに楽だし、より物事が早いと考えていた節がある。
時を経て2015年に総選挙でアウンサンスーチー率いるNLDが圧倒的な勝利を収め、54年振りの文民政権が発足した。日本政府がよくいう「同じ価値観を共有している」が本心だとすれば、今こそミャンマーが軍政に戻らないように支援する機会だろう。
昨年にはミャンマー新空港建設を日本とシンガポールの企業連合が受注し、2022年には開港が予定されている。最後のビルキチと呼ばれた高原は草葉の陰で悦んでいることだろう。晩年はアウンサンスーチー、軍部最高幹部のキン・ニュン第一書記とも会い、互いが協力するように促し、ミャンマーの発展を心から祈っていた。
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