父はクラシックが好きで、当時の蓄音機に年中レコードかけてました。蓄音機はあの頃、持っている人たちにとっては家庭の娯楽の王様的存在でね。1950年代初頭ですよ。
鳴ってたのは、フルトベングラーとか、トスカニーニだったということに後で気づきますが、クラシックがいいなと、特に思ったわけではなかったです。音がいつも鳴ってることに慣れていた、と。
4歳上の姉がおりまして、エルヴィス・プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」(1956)を買ってきた。それを聞いて、いい歌だなあと思ったのが、そもそもの始まりです。同時代のアメリカに、エルヴィス・プレスリーがひとつの現象を巻き起こしていたなんてことは、もちろん知らない。
そして中学に入ります。やったのが、ベイビー・シッターのアルバイト。場所はワシントンハイツ(現・代々木公園)です、米軍さんの団地で、のちの代々木オリンピック村ですね。ここで、アメリカに憧れた。
中学校から推薦されて行ったんですよ。別にお金が欲しかったというのではなくて、面白そうだったので。
お宅はメイジャー・ハスキンスっていう、35歳くらいの人の、メイジャーですから少佐ですね。
そのころ、下士官以下はかまぼこ兵舎、将校は立派な一戸建てで、メイジャー少佐の家もとても立派でした。ずらーっと並んでるところなんか、ロサンゼルスのビバリー・ヒルズみたいなもんでしたね。芝生も刈りこんでるから色に縦縞の濃淡があって、すごいや、と。
その家に行ったんですが、日本とかけ離れた夢のようなアメリカン・ドリームの空間だったわけです。
自分の家だと、冷蔵庫は氷を使ってた。氷屋がリアカーに乗せて運んでくる氷を切ってもらって、それを子供ですけど男の子なので、家に運ぶ仕事をしましたね。でもこの氷が、だいたい1日半くらいでなくなってしまう。溶けた水の受け皿があったのも思い出しますね。
それがハスキンス少佐の家へ行くと、電気冷蔵庫でびっくり。
ハスキンス夫人には子供が2人いて、3歳と5歳ぐらいの子供たちの面倒を見るという仕事です。そしてそのハスキンス夫人というのが、ハリウッドの映画に出てくるみたいにきれいで。
わたしは別に貧乏じゃなかったんだけど、夫人がコカ・コーラはくれるわ、ハーシーのチョコレートはくれるわで。アメリカ人って、人にモノやるのが好きなのかな、って思ったな。英語で、いえ間に合ってますというのがなかなか言えないからみな貰っちゃって。週に1回行ってたんですけど。
考えてみりゃ、そのあと日本で流行になったものばっかりですよ。風船ガムとか、スコッチ・テープもくれたな。