浜野 ベイビー・シッターはできたんですか。
石坂 ただそこにいればいいって仕事だったんでしょうね。だいたい、少佐も暇なのか4時ごろ帰ってくる。
でも英語の勉強にはいい。子供の英語はちんぷんかんぷんだったけど。ハスキンス夫人はなにしろいつも居るんだから、一緒にメシを食ったり。
それで少佐が帰ってきたら、夫婦して抱擁して、チュってやる。ああ、これがアメリカか、ってなもので。
アメリカに憧憬の念を、こうして抱くんですね。
黒人差別のアメリカと、友達の家のトタン屋根
浜野 プレスリーのレコード聞いても、当時不良扱いされなかったんですか。ビートルズだと、あんなもののマネするなって言われたもんですよね。
石坂 やっぱりそれほど流行らなかったんですね、日本じゃプレスリーは。
アメリカでは大変な現象でしたよ。
それまでアメリカの中流家庭だと、リズム・アンド・ブルースへの接触が禁じられていたでしょう。それが、プレスリーの台頭で、ほぐれていった。
ネグロの音楽が、プレスリーの成功によって、中産家庭の子女が聴ける対象になった。
自由の国アメリカでも、それまでは黒人音楽聞くのなんて下品だとか、なにしろミドルクラス以上の家庭だと、ラジオから流れてきただけで消しちゃう、とかね。そんなだった。
ラジオで聴くのを許している家だと、コンサートには行かさないし。たとえR&Bのコンサートだったとしても、ルイジアナとか、ディープ・サウスだったら白人用の席が7割で、黒人は隅に座らされたのだそうですね。
あのナット・キング・コール(1919-1965)、ニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートに出演するっていうとき、自分の公演なのに、カーネギー・ホールのカフェテリアへ行ったら断られて入れなかったっていうんだ。
浜野 単純にラジオから流れてくるプレスリーを聴いて、これいいなと思っていた頃、小学校から中学校時代でしょうか、趣味が合う友達っていたんですか。
石坂 小学校時代というと、まだ戦後復興真っ最中でね、それどころじゃなかったんだな、大多数は。渋谷区の、常盤松小学校、っていうんです。今でもありますよ、1学年たったの20人ぐらいらしいんだけど。
明るかったです、貧しくても。行ってみたらトタン屋根とブリキでこしらえた掘立小屋みたいなところに住んでる友達も、俺んち来いって、なんのこだわりもなく誘ってくれてた。