この東京回帰の傾向は、90年代後半という時期が関係していると私は見ています。80年代のバブル崩壊後、戦後から右肩上がりに伸びるものと信じていた経済が不安定になり、格差社会が叫ばれ始めた時期が90年代後半です。そうした時代背景のなかで、人々は将来に対し不安を持ち始めた。たとえば、発展途上国の首都や、わが国でもかつて経済成長期の東京に職を求め地方から多くの人たちが流入してきたのと同じように、不安を解消するために皆が東京に職を求めた結果、人口増加を引き起こしたと考えています。
加えて、23区の人口増は、特に千代田区、港区、中央区といった都心部の動きが全体をリードしたと思われます。中央区は1981年から「定住人口10万人」の目標を掲げてきましたが、都心部の人口はずっと減り続けていました。バブル期には土地の価格が高騰し、地上げの被害など散々痛めつけられた土地です。その都心部で人口が増えた理由は、建築基準法が改正され、タワーマンションの建設が可能になり再開発が行われたこと、そして「ヒルズ族」という言葉に象徴されるように、格差社会の上部に位置する人たちがそうした場所に住むようになったことで、都心居住のブームが起こったためです。その延長として23区全体に人が集まるようになったのだと思いますね。
――もちろん、都心部に住むとなると所得が高くないと難しいですね。
池田:都心部に住む人たちは所得が高い、というイメージは現在ではその通りだと思いますが、少し時代を遡ると必ずしもそうではありません。また、パリのアパルトマンに住むのは売れない芸術家などで、2012年のロンドンオリンピックの会場となったロンドン東部は、移民や貧困層が住む地域でした。世界的に見ても少し前まで、都心部に住むのは移民や若い人、低所得者層だった。所得の高い人たちは、郊外の大きな屋敷に住んでいました。
――たとえば港区の白金と言えば、現在ではセレブの街として有名ですが、一方で商店街や小さな工場など下町の名残がありますね。
池田:白金という土地は、昔からネジの街として有名でした。特に、白金高輪台駅から北里大学のあたりはいまも準工業地域です。映画『三丁目の夕日』の舞台は間違いなく港区ですし、青山の裏通りに入ると木造の住宅が残っています。港区は、少し前まで多くの下町と一部の山の手で構成されていたんです。
――2000年代に入り、そうした都心部にステータスを求め新しく住み始めた人たちと、代々その土地に住んでいる人たちで軋轢が生まれることはないのでしょうか?
池田:おっしゃる通り、港区や千代田区に新しく住み始めた人たちの多くは、ステータスを重視しているので、その土地の歴史などに興味はあまりないかもしれません。
ただし、港区は昔から住んでいる人たちが千代田区などに比べると多いため、商店街や自治体の活動がしっかりしていると聞きます。そういう活動があると、新しく入ってきた住人は交流がしやすいですよね。