陽気なフィリピンの出稼ぎ女性たち
11月13日。クアラルンプール(KL)のペトロナス・ツインタワーの裏の熱帯林と池が広がる公園を散策。池の畔に東屋で休憩していたら、20人くらいのフィリピン女性の集団が来て、空いているベンチを占拠。私を取り囲むようにして賑やかにおしゃべりしている。
彼女たちはフィリピンからKLに出稼ぎにきたメードやベビーシッターだった。日曜日なので同郷出身者が公園に集まって休日を楽しんでいたのだ。
35年前の香港の日曜日の不思議な光景を思い出した。スターフェリーの乗り場近くの大きな公園の芝生に1000人くらいの女性が沢山のグループに分かれて車座になってピクニックしていた。持ち込んだラジカセで音楽を流して陽気な女子会であった。彼女たちは香港でハウスメードやベビーシッターをしているフィリピン女性たちで日曜日の公園に三々五々と集まってきたのだ。
マレーシアの経済発展により経済格差が拡大するにつれてフィリピンからマレーシアへの出稼ぎが増えたのであろう。聞くとフィリピンの人口は1億人を越える勢いで増えている。経済のグローバル化により海外出稼ぎ(Overseas Filipino Workers)も増加、現在1000万人のフィリピン人が海外で働いているという。ほぼ人口の10%である。
確かに海外でフィリピンの労働者に頻繁に遭遇する。中東のホテルでは支配人以下レセプション、ベルボーイ、コック、室内係、と従業員が全てフィリピン出身者というケースもあった。同郷出身者で身元が確かなので雇い主にとり安心なのだ。
中東経済を支える陽気なタフガイ
30年くらい前、ドバイで石油掘削リグの組立工事の進捗状況を視察したことがあった。炎天下、巨大クレーンを使って高さ数十メートルの石油掘削リグを組み立てていた。現場には200名近くの男たちが働いていた。
海上の沖合を見ると陽炎で水平線が揺れていた。熱暑に耐えられず、簡単に進捗状況を写真に収めて20分ほどで屋内の冷房の効いた事務所に逃げ戻った。
ランチタイムに食堂(canteen)に行くとアジア系の作業者たちで一杯だった。半分くらいがフィリピーノで、陽気にタガログ語でしゃべりながらテーブルを囲んでいた。我々を見ると「コンニチワ」と明るく声を掛けてくる。過酷な環境でも陽気に振舞うタフネスぶりに感服した。
身近なエンターテイナーのフィリピーノ
海外旅行をした人はレストランやクラブなどで一度や二度はフィリピンバンドの演奏を聴いているだろう。フィリピンバンドはファミリーや同郷人でメンバーを組んでいることが多い。
10年ほど前、ホーチミンのホテルのクラブでビールを飲んで暇潰しをしていた。女性シンガーが上手かったので拍手したら演奏後にテーブルに挨拶にきた。彼女は「ギターが弟、ドラムが叔父、キーボードが従妹というファミリーバンドです」と説明。叔父さんは15歳からベトナム戦争時の米軍キャンプを周っていたという。
グアムやサイパンではフィリピンバンドがほぼ席巻している。シドニーのイタリアレストランでもフィリピンバンドが雰囲気を盛り上げていた。フィリピン人は先天性音楽才能があると読んだことがある。それゆえ陽気な民族性と相俟ってエンターテイナーとして世界各地で活躍しているのであろう。
15年ほど前のことになるが、日本の地方都市のジャズバーで素晴らしくノリのいい女性シンガーに会ったことがある。アラフィフの彼女はステージで歌うのは20年ぶりと言った。「10歳の時にベトナムのダナンの米軍キャンプで歌ったのがデビューだったのよ」と当時伯父さんがリーダーのバンドでベトナム各地を巡回したことを語った。
彼女は日本人の旦那と結婚して地方都市に移住。しかし旦那は子供が小さい頃に逃げてしまった。20年間日本で子供3人を女手一人で育て上げた苦労は大変なものであったに違いない。
そんな辛さを一切感じさせない陽気な歌声に大いに元気をもらった。やはり生まれついてのエンターテイナー(a born entertainer)なのであろう。
フィリピン人船乗りの『恐怖の報酬』、命懸けの航海
今や世界の海運業界はフィリピン人船乗りがいなければ成り立たないほどフィリピン人船員は7つの海で活躍している。船長以下クルーが全員フィリピン人船員というケースも多い。
筆者が今から25年ほど前のイラン駐在中の忘れられない光景がある。イラン国営タンカー公社の本社ビルのロビーに飾られていた数十枚の顔写真の遺影だ。半分以上がフィリピン人船員だった。
イラン・イラク戦争中に双方は相手方の石油輸出をストップさせようとしてペルシア湾内を航行する相手側のタンカーを無差別攻撃した。特にイラクは優勢な航空戦力を活用してイラン航路のタンカーを攻撃。仏製ミラージュ戦闘機から放たれた高性能エクゾセ・ミサイルは大きな戦果を挙げた。
当時ペルシア湾でイランから石油を積み込むタンカーの傭船料は高騰して一般船員でも一回の航海で数万ドルのボーナスが保証されていた。船長は一航海の危険ボーナスが10万ドルと聞いた覚えがある。家族への送金のために多数のフィリピンの船乗りが命を懸けたのだった。
英国植民地時代に開発されたコタキナバル
11月15日。KLから飛行機でボルネオ島のコタキナバルへ到着。ボルネオ島の北側はフィリピンと領海を接している。コタキナバル(通称KK)は18世紀後半からイギリス人が開発拠点として建設した。英国は植民地建設のため当時労働者(苦力「クーリー」)として盛んに中国大陸から中国人の移住を奨励した。現在でもKKの中心街はチャイナタウンである。