2024年12月22日(日)

この熱き人々

2018年4月23日

祖父を超える船を造りたい

 佐野は、小学校の卒業文集に「世界一の船大工になる」と書いている。自分は船を造るために生まれてきたと、小さい時から揺らぐことなく思っていたという。

 子供の頃、祖父と父が遠洋のマグロ漁や北方のサケマス漁に出ていく20メートル級の船を造っているのを見ながら育った。

 「マリアナ諸島、グアム、サイパンあたりまで焼玉エンジンで行って漁をしていた時代の船大工だった祖父(じい)さんは、船はたくさんの人の命がかかっているから覚悟をもって造れってよく言ってたよ」

 佐野の祖父は、1887年に日本で初めて西洋の造船技術を教えるため築地に創設された工手(こうしゅ)学校(工学院大学の前身)に、仕事を終えた夜に通って勉強していたという。和船の船大工は腕がよくてもマグロ船は造れない。鎖国を貫く江戸幕府が外洋に出ていくことを認めない状況下では、技術は育たなかった。

 「北前船だって、沿岸しか走ってないでしょ。和船にはデッキがない。外洋には出られない構造になってるわけ。これからの船大工はノミのケツ叩いているだけじゃダメだ、頭を鍛えろって祖父さんはよく言ってたね。祖父さんは西洋の造船技術を学んだからマグロ船が造れたし、戦後生き延びることができた。深川はね、関東大震災で焼かれ、やっと立ち直ったら戦争でまた焼かれて壊滅的な打撃を受けた。戦後、祖父さんは親兄弟で船を造ろうって思ったみたいだ。人をたくさん雇って造船所を大きくして、金策のために走り回るより、家族で好きな船を造っていたいって」

 祖父の話をする時、佐野の言葉に力がこもる。尊敬している祖父の教え通りに、佐野は数学や物理を懸命に勉強して、自らの目標に向かって工業高校、工学院大学専門学校造船科に入学した。

 造船の分野では、小学5年生の時にすでにディンギーと呼ばれる足船を改良して話題になり、15歳の頃から3年かけて、外洋にも出られる木造ヨットを設計からすべてひとりで完成させている。

 「中学に入った頃から親父に船体設計を教えてもらっていたので、早く自分で船を造りたかった。祖父さんが20歳の時に20トンのマグロ船を造ったって聞いていたから、祖父さんより早く祖父さん以上の船を造りたいって思っていたんだよね」

 高校生がひとりで造った木造ヨットの名前は「プリティエンジェル号」。見てほしい、知ってほしいと日本の船の雑誌などに手紙を書いたが、どこも関心を示さない。それなら外国にアピールしようと、辞書を片手に英語で手紙を書き、学校で先生に直してもらって、アメリカの木造船の専門雑誌「Wooden  Boat」に写真と一緒に送った。すると、佐野の船を取り上げた掲載誌が送られてきて、その後、はるばる直接取材にも来てくれたという。


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