波乱に富むスパイ人生
犯人の動機を浮かび上がらせるため、英国メディアは、スクリパリ氏の波乱に富む人生を詳細に報じている。ここに手がかりはある。1951年、バルト海に望む飛び地、カリーニングラードに生まれた。子供のころ、かすかにラジオから漏れる英BBCのニュースを聞いて育ち、外国語の能力を身につけた。屈強な身体で、ソ連軍のエリート部隊である空挺部隊に選抜され、アフガン戦争にも参加。兵士時代はボクサーとして軍の大会で優勝したという逸話もある。
スクリパリ氏は諜報組織にスカウトされ、80年代にモスクワにある軍事外交アカデミーを卒業した。GRUが管轄し、駐在武官や非合法諜報員に専門教育を施している。その後、彼は外交官の肩書きを持ち、欧州各国で軍事諜報を担う任務に就いた。露紙コメルサントによれば、スクリパリ氏はその時代に、エストニアの首都タリンの英国大使館で勤務していたMI6のエージェントにリクルートされた。モスクワの作家、ニコライ・ルザン氏が自らの著作でスクリパリ氏がどのようにして、情報を流したのかを暴露している。
英国のエージェントはスペイン系の偽名を持ち、スクリパリ氏に接触した。一緒にワインの取引を持ちかけ、資金を稼いだ。ロシアの古参スパイの歓心を得ようと、スクリパリ氏をストリップクラブにも連れて行ったこともある。そうして、関係を深め、ついにスクリパリ氏は機密情報を流すことでエージェントと合意を交わした。その代わり、スクリパリ氏は報酬を受け取った。後に、FSBは口座捜査などから報酬額の合計は10万ドル(約1千万円)だったと算定している。
1990年代後半、スクリパリ氏は健康上の理由でGRUを辞め、モスクワに住んでいた。その後も、MI6のエージェントとの関係は続いたのだという。トルコの観光地イズミールで妻と一緒に旅行し、接触を図った。2000年にプーチン政権が発足してから、GRUの内部組織のデータが盗み出され、英国に渡っていたとの情報もある。そして、ついに秘密の関係がばれ、2004年、ロシア連邦保安庁(FSB)が彼を逮捕した。
MI6に機密情報を流す
露メディアは「スクリパリ氏の裏切りはロシアの国益に深刻な損害を与えた」と報道した。欧州域内で活動していた約300人の諜報員の情報がMI6に流れ、その打撃は、1962年のキューバ危機で米英に機密情報を流し、処刑されたGRU職員、オレグ・ペンコフキーのスパイ事件に匹敵すると言われた。
スクリパリ氏は06年に有罪判決を受け、収監させられた。過酷な仕打ちを受け、拘束時にはFSBの職員により、肩の関節が故意に外されていたのだという。ロシア国内でも、最も劣悪な環境下にあるという露中部モルドヴィア共和国内の刑務所に収監された。「あの頃、刑期を終えたら、家を建てることを夢見ていた。そうすることで自分の精神を保っていた」。ソールズベリーで関係を深めた彼の友人が、刑務所時代の苦難をこう振り返っていたと英メディアに明かした。
しかし、刑務所での生活は長く続かなかった。2010年に転機を迎えた。トップ外交の交渉で、スパイ交換により釈放されることが決まったのだ。スクリパリ氏の目の前に地獄から天国へ登る階段がおりてきたが、それは同時に死につながる階段でもあった。