43歳(1928年)以降何度も帰郷し、57歳(1942年)での絶筆が故郷・柳川の写真集『水の構図』(写真・田中善徳)の序文だったから、柳川の少年期の回想『思ひ出』で世に出て、結局故郷へ回帰したと言える。
〈故郷やそのかの子ら/皆老いて遠きに/何ぞ寄る童(わらべ)ごころ。〉(『帰去来』)
私は以前、小田原市の「小田原文学館」や「白秋童謡館」を訪れたが、その前に福岡県柳川市の「白秋生家館」を訪ねたことがある。
柳河藩御用達の旧家だった生家(出生時は酒造業)で白秋ゆかりの品々を見たり、白壁や土蔵の残る水路を舟で巡ったりした。
水路に面した宿泊施設では、白秋の童謡作品がオルゴールで館内に流れていた。
私は『この道』(特に3番)が好きである。
〈この道はいつか来た道、/ああ、そうだよ、/お母さまと馬車で行ったよ。〉
この作品は前半と後半で歌の舞台が違う。
1番の「あかしやの花」と2番「白い時計台」は、1924年の北海道旅行の際の感慨だが、4番に登場する「山査子(さんざし)」は本州が北限の植物で北海道には自生しない。3番の「お母さま」は熊本出身の白秋の母のことだ。
母・シケの実家は、柳川から約20キロの熊本県外目村(現、南関町)の資産家だった。
病弱な白秋は外遊びが苦手で、休みのたびに(時に馬車に乗り)3階建ての母の実家に通った。祖父は幕末の思想家・横井小楠の流れを汲む学者で膨大な蔵書を有していた。
幼少の隆吉(白秋)は、祖父の書庫にこもって書籍をむさぼり読んだという。
長男の白秋が酒造業の跡取りを断固拒んで中学を中退し、文学者目指して上京したのも、もとはと言えばこの幼少期の読書体験からだ。
「この道」とは従って、最愛の母との追憶シーンであり、同時に詩人になることを運命づけてくれた母の実家へと続く街道を指す。
一流の詩人(北原白秋、野口雨情、西条八十など)と一流の作曲家(山田耕筰、中山晋平、本居長世など)が「子どものために」協力して作った童謡という近代音楽のジャンルは、日本以外の国には存在しない。
そう思えば、「童謡100年」という歴史はしみじみと重い。
3~6歳児の半数以上がスマートフォンを日常的に使用しており、「ネット依存」や「睡眠不足」が心配される、というニュースが聞こえてくる昨今、余計にそう感じる。
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