2022年12月10日(土)

パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2018年10月9日

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目標であり、ライバルである選手の存在

 しかし、このリレハンメル大会では、競技の結果よりも大日方の人生に彩を添える大きな出会いがあった。それはアメリカ代表のサラ・ウィル選手の存在である。

 サラ・ウィルは世界のトップ選手でありながら、初出場の若手にも分け隔てなく接し、コースについても気軽にアドバイスをくれる選手だった。

 大日方はそのサラ・ウィルからパラリンピックの価値を聞いた。

 ―多くの人たちは足の無い人や立てない人はスキーができないと思っているけれど、私たちにはそれができている。車いすユーザーでも、こうしてオリンピックのコースで滑ることができている。

 それは不可能だと思われていることも、努力することによって可能にすることができることを示している。私たちはパラリンピックを通して、こうしたメッセージを強く発信していくことができる―

 

 「サラ・ウィルさんはカッコいい選手でした。私もこんなアスリートになりたいと思いましたし、98年の長野大会では真っ向から競い合える選手になるという目標ができました」

 当時は現在のように国際試合があまり多く行われていなかった時代である。数少ない国際大会に出場し、年々サラ・ウィルとの力の差を詰めてきた実感はあったものの、前年の段階ではまだ力の差を感じていた。

 自国開催とあって、日本人選手に対する期待感が高まっていった。大日方自身、「日本の代表なのだから、それに恥じない選手にならなければ」という重圧を感じるようになった。

 そして迎えた長野大会。大日方は滑降で冬季パラリンピック日本人初の金メダルに輝き、スーパー大回転では準優勝、大回転で3位という快挙を成し遂げた。

 「彼女を目標にしたことでモチベーションが高まって、練習に熱が入りました。長野では他にも強い選手たちがいましたが、実質サラ・ウィル選手との一騎打ちになりました。でも、まさか、勝てるとは思っていませんでした」

 競技を終え、サラ・ウィルはインタビューの中でライバルとしての大日方について触れている。

 お互いがライバルとして認め合っていたのだ。

自国開催後、チームがなくなった

 「競技スキーをはじめて、私の人生は加速度的に変わっていきました。でも、良かったことばかりではありません。98年長野大会の後が大変でした。自国での開催が終わってみると、言い方は悪いかもしれませんが『宴のあと』という感じでした」

 「大会の関係者にとっては自国開催の成功がすべてですが、アスリートにとっては競技への出場は一過性のものではなく、その先の大会を目指して競技活動を継続したい。それなのに、気が付けば活動できるチームの母体がなくなっていたのです」

 「ナショナルチームは残ると思っていたのですが、長野大会に向けて組織されたものだったので、終わったあとはナショナルチームすらなくなってしまいました」

 練習する場所もなく、ただひとり取り残されたような気持ちになった。

 スキー競技は個人戦だが、スキー場を借りたり、コースにポールを立てたり、その他様々なマネジメントを含め、練習はチームで動いてこそできるものなのだ。

 大日方の周囲には練習を諦めた選手もいた。

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