長野大会で共に戦った選手と協力してコーチを探し、チームを編成し、練習場所を求めて健常者たちのチームや高校生に混じって練習をした。
「志賀高原はパラリンピックが開催され、大勢の地元の人が大会役員として活動されていたこともあって、私のことを知っている人も多くて助かりました。『パラの大日方選手が練習したいって』『いいよ、一緒に滑ろうよ』って受け入れてくれたり、実戦経験が必要ということで大学生の大会に前走としてコースを滑らせてもらったりしたこともありました」
日本代表とはいえ選手たちは競技に専念できず、不安定な環境の中で練習を続けていた。
「長野大会のあとの2~3年は、いろいろな方に練習場所や機会を提供していただき細々活動していました。自国で開催することはとても良いことだと思っています。ただし、大会後のこともしっかり考えておく必要があります。パラリンピックはその後も続きますし、選手も競技者としての活動が続きます。だから、持続可能なものにしなければならないのです」
長野大会以降、混乱が続いたまま2002年のソルトレークシティ大会に出場。競技に集中できず不完全燃焼のまま大会を終えた感が拭えなかった。
「選手選考でもめ、チーム内にも不和が広まり、あのときは修羅場だった」と大日方は悔しさを口にした。
こうした経験を踏まえ、2006年トリノ大会には選手が主導してチームを作っていった。
「ここでまた練習環境が変わるのですが、同じころにスキーの板にも技術革新があって長さや形状が変わりました。
カービングスキーを使ったカービングターンというのが出始めた頃です。私たちもこの技術を取得するために、練習量を増やし、練習の質も大幅に変えました」
前回大会での悔しさもあって、トリノ大会には期するものがあった。
結果は、滑降とスーパー大回転で準優勝、大回転では優勝を果たし8年ぶりに世界の頂点に立った。
この大会が終わって大日方は勤めていたNHKを退職。競技に専念できる環境を求め、電通パブリックリレーションズに転職し、アスリート雇用の先駆けとなった。
その後、2010年のバンクーバー大会(結果は回転、大回転共に3位)を最後に日本代表の引退を決意。
現在は(公財)日本障害者スポーツ協会理事や(一社)日本パラリンピアンズ協会の副会長等の要職を務め、アスリートファーストの理念のもと障害者とスポーツと社会を繋いでいく活動に取り組んでいる。
インタビューの最後に大日方は穏やかにこう語った
「2020年のオリンピック・パラリンピック以降、お互いがお互いを自然に気遣うことができる、良い意味で許し合える、豊かで、寛容な社会がやってくることを願っています」
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