「本物とニセモノが常に背中合わせ」という古くて新しい問題
ゴッホの複製画を描く趙小勇は農村出身。家は貧しく、中学1年までしか学校に通えなかった。生活のために深圳に出稼ぎにやってきて、画工になった。いわば職人のようなものだが、工業製品を作っているのではないので、描いてきた作品には自然と愛着が湧く。
独学で絵画を学び、ゴッホの絵を描くようになって20年。今では家族総出でゴッホの複製画を描いて生計を立てているが、生活は一向に楽にならず、ひたすら複製画だけを描き続けることにむなしさも感じている。そんなある日、どうしても、オランダで“本物”のゴッホを見てみたいと思い、他の画工たちとともに旅立つ。そして、本物のゴッホを目の前にして感動し、冒頭のように語ったのだ。
本映画では、超小勇という中年の画工の人生を通して、現代中国のさまざまな側面や社会問題もあぶり出している。そのひとつは、複製画ビジネスの製造拠点が中国にあり、それを担っているのは出稼ぎ労働者であるということ。近年は労働者の賃金が高くなり、労働条件の悪い画工のなり手が少なくなっている現状も描写される。また、出稼ぎ労働者の戸籍の問題も描かれている。趙自身もそうだが、趙の娘は出稼ぎ労働者の子どもであり、都市戸籍が得られないので、深圳の学校に入学することができない。農村出身者は、たとえ都会に長く住んだとしても、生活は不安定であり、都市住民と同じような社会保障は得られない。
そして、本物とニセモノが常に背中合わせにあるという、古くて新しい問題だ。中国は長い間、世界からパクリ天国と揶揄されてきた。近年では独自ブランドの育成が進み、ニセモノ=悪という認識も少しずつ広がってきているものの、最近でも、日本人アーティストの草間彌生さんの作品を模倣したニセ作品展が中国各地で開催されて問題になったり、無印良品が商標問題でニセの無印良品に権利侵害で訴えられ、本物であるにもかかわらず、裁判で敗訴するという残念なニュースが報道されたばかりだ。
オリジナル作品を描く喜び
最後に、趙が、ゴッホの複製ではなく、自分のオリジナル作品に挑む場面に「救い」がある。彼が描いてみたいと思ったのは、故郷に住む唯一無二の老母の肖像画だった。
筆のタッチこそゴッホ風ではあったが、自分だけの作品を描いてみたいともがく姿は、複製画の生産地という日陰の存在から抜け出したいけれど、なかなか抜け出せないでいる絵画村の現状、そしてそれがビジネスやお金にも結びつき、構造を変えられないという現実とだぶってみえる。だが、オリジナル作品を描く喜びを知った彼の表情は明るかった。
変化の激しい中国のことだから、10年後、もしかしたら、中国からこうした絵画村は消滅しているかもしれない。だが、だからこそ今、このような現状がまだ中国には存在するのだ、と知ることは、貴重だといえる。
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