東京から徳島県神山町に移住したカメラマン
塩川(Wedge編集長) 次に連載で写真撮影を担当していただいたフォトジャーナリストの生津勝隆さんの意見を聞きます。生津さんは、お子さんが生まれたことをきっかけにして4年前に徳島県の神山町に移住しました。
生津 はい、本当にあの僕、生粋の江戸っ子だったんで、本当にアイデンティティの喪失くらいのことでした。そうだったんですけども、子供が生まれたということも、大きな価値の転換だったので、何の迷いもなく、何の恐れもなく、ただ、娘に導かれて引っ越したんです。
僕が住んでいた駒込というエリアも下町でみんながみんなの事を知っていて、コミュニティはあるし、隣のお婆さんとも仲良いし、あまりそのギスギスした都会の寂しさっていのも味わずに大人になったんで、本当に何も変わらずただ周りの景色が変わっただけで普通に引っ越しして生活しています。
神山町には、色んな人が来ます。胡散臭いコンサルから秀才まで本当に色んな人が来ます。色んな人と話をします。情熱もある、課題を発見する、ノウハウも学校で勉強してきた、何かの解決の糸口みたいなことをやって助成金を引っ張ってきたりとか、イベントやったりとか…。
でも、一流と二流・三流の違いがある。それは何かと言ったら、僕は「愛」だと思います。真野先生のおっしゃった、粘り強さと似ているんですけれど、愛だと思います。「愛」って一言で言っちゃえば、愛情あって仕事してるに決まっているじゃないですか。
でも、その愛のベクトルが大事だと思います。二流・三流の方の愛のベクトルはね、やっぱり自分に向いている。自分のポートフォリオ作成のために自分がまた違う自治体に行って、そんなことを実績として引っさげたいとか。愛情・情熱・粘り強さが全部自分に向いているんですよね。
城崎国際アートセンター館長・田口幹也さん
田口 僕は一応、Uターンではあるんですが、正確に言うと僕の今いる豊岡市っていうのは1市5町が合併してできた町です。東京から見ると全部一緒じゃないか、という話なんですけれども、僕はその中の日高町という町の出身で、今いるのは城崎(町)、で城崎の人から見ると僕は移住組になってしまうんですね。
今のお話を伺っていて、どういう人がいいのだろうかと考えていたのですが、僕の場合は凄くラッキーでした。というのは、やっぱり地域の方が、繋いでくれた、受け入れて、で、この人こういうふうに活用したらいいなっていうふうな感じで、誘ってくれたところがあるんですね。23年ぶりに東京から戻ってきて、真野さんが副市長でいらっしゃるときに本当に「おせっかい」という名刺1枚持っていったら、役割を与えてもらえた。
例えば、志賀直哉の著書『城の崎にて』で、城崎の名は広く知られることになりました。僕が「おせっかい」を始めた頃がちょうど、志賀直哉が城崎にやってきた年の100周年に当たる時でした。城崎の旅館の若旦那衆が中心となって、何かをやりたいんだけれども良いアイディアがなかなかない。そのタイミングで100周年事業に何か刺激を与えてくれるだろうと「おせっかい」の僕を引き込んでくれた地元の方がいました。入口が良かったので、すんなり受け入れて貰えたのかなと思います。
そういう意味ではやっぱり、よそ者を受け入れるための土壌があるところとないところでは違いが出てくると思います。
真野 豊岡でも1市5町、受け入れが良いところと受け入れがそれほどでもないところもあります。海の町で、北前船が来ているような町だと地域おこし協力隊も行っても、すぐにこう打ち解けてやっていけるとかですね。
そういう町が昔から外の人が来て交易の中心になっているようなところだとか、観光地で沢山外から入っているような所っていうのは割と受け入れが良いかな、という感じはしますね。そういうところじゃない所っていうのはどうしても、なんか余所者が来て何かやろうとすると、「じゃあ、やってみろよ」みたいな感じになっているところも出てくると。
生津 神山町も土壌はよく言われるのはお遍路文化だと言われます。特に神山は中山間地の物凄く急峻なところで八十八ヵ所巡りの唯一のオリジナルのとんでもない遍路転がしの道が残っているような難所なんですね。だから昔から神山町まで巡礼に来る人は本当の巡礼者だった。だからみんなお接待していた。
真野 今、海の町と言ったのは交易の海の町ということで、そこと、山でもですねやっぱりですね交易の拠点になるような町ってありますので、そういうところとの違いみたいなのはあるかなぁというふうに思います。
磯山 48回連載をして48ヵ所行った中で、これ、ここだけの話ですけれども、最も田舎だなぁと思ったところがですね、3つくらいありまして、その1つが神山町ですね。徳島空港から徳島(不明)から1時間ぐらい山の中に入っていくんですけれど。もう何もないところですね。なんでここに人が移住して行くのかが分かんないっていうところでありました。
ただ、移住者を引き寄せるっていうのと地理的に不便かどうかとは実はあまり関係ないんだなと思いましたですね。で、やっぱりポイントはですね引き寄せる人ですね。先ほどの「カマス理論」でいうとやっぱり、こうよそ者のカマスを受け入れるなかにも、意識の違うカマスがいるみたいなのが必要で、ここでも田村さんもそうですし、それから平野さんもそうだと思うんですけれど、
やっぱりこう地元出身なんだけれど、ちょっと地元とは離れたところからミニ移住みたいな感じ。地元の事をよく理解した半分余所者・半分身内みたいな人がハブになっていて引き寄せているという感じがしました。
一方で、余所者として入ってい苦労した人が1人いらっしゃるんで、三野昌二さん。三野さんは豊岡市の隣の養父市というところの副市長でした。
三野 豊岡とちょっと違って、よそ者を受け入れる土壌なのかっていったら非常に厳しいところがあるところなんですね。副市長として入って、まず言われたのは「どこの馬の骨とも分からない、誰なんだ」と。地域に受け入れられるまでに1年位かかりました。
1年の間に各地域を回ってコミュニケーションですかね地域と、そういったことをやっていくうちにやっと受け入れられました。
私は職員に対して、「あなた方が生まれて育って一旦、外には出ているけれど、また帰ってきて公務員になって、結婚して子供が生まれてこの地であなた方は余生を最後までいくんでしょ? その町をあなた方は幸せな町にしようとは思わないの?」と。だから色々知恵を出そうよと、知恵を出せ、汗を出せですね。去ることは出来ないんですから。
特区になっということもあって、養父市も移住が増えました。ただ、大きな問題となるのが「よそ者をどう受け入れるか?」ということです。
養父市の場合は各地域に部落がありまして、移住して住むとなると、部落費を徴収されることになります。よそ者が来て入ると「20万円ください」とか「40万円ください」と、言われる。どういうことかといえば、「あんたたちは途中から来たんだから、色々な行事の時にお金出さないと駄目だよ。我々は今まで溜めてきたお金があるから、それでできるんだけれども」と、言われます。そういうことが一部ではあるので、よそ者が入ってくるのは難しい面もあります。