いい親であろうとするその力を、フッと抜いてみるといい
おおた:うちの子は高校生と中学生。年ごろなので詳細を言うことは控えますが、日々成長を感じます。
小川:成長の時期によって、子どものほうから距離を変えていくんですよね。うちは、息子が僕の呼び方を変えていきましたね。3年生までは「お父さん」だったんですけど、あるとき、僕の名前の大介を文字って「だいのすけ」に変わったんです。「お父さん」と呼ぶことがモヤモヤし始めて、違う言い方をしようと考えたんでしょう。それで次に「もちのすけ」になった。僕のお腹がもちもちしているからだそうです。その後「おとのすけ」になり、長いから「おとう」になって、それで今のところ定着しています。呼び方を変えて遊ぶことによって、父親との距離感をヤツなりに取っているんだろうなと思いました。
おおた:子どもに何か、親にとってはありがたくない変化が起こったとするじゃないですか。たとえば、学校へ行けなくなったとか、中学受験を辞めると言い出したとか、部活を辞めたいとか、いろんなことが起こりますよね。そういうときこそ、「ありのままの子どもを見る」ということが大事になってきますね。
小川:さきほど、「それって誰かが決めたんですか」と親御さんに聞くと、「だってそういうものでしょう」と返ってくるという話をしましたけど、学校は行くものだとか、受験をしたほうが将来有利だとか、部活は続けることに意味があるのだとか、ピンチのときほど親御さんは世間の枠の中で考えようとしてしまうんです。でも、枠の中で考えるということは、枠に子どもを当てはめようとすることにほかなりません。
おおた:大人がこういう風に関わっていけばうまくいくかなという下心じゃなくて、「この子は今こうなんだ。このままでいいじゃない」と、受け入れてあげたいですね。
小川:3カ月後には学校へ行けるようになってほしい、最難関校でなくてもいいからそこそこの私立中学には行ってほしい、部活を続けることで達成感を得られるチャンスを逃さないでほしい。「うまくいってほしい」というのは、結局のところ、親が勝手に想定していることにすぎないんですけどね。
おおた:取材でいろいろな中学や高校の先生に話を聞く機会があります。急に学校に行けなくなってしまったという子たちの話もよく話題にのぼります。そういうとき、親が「この子は今こうなんだ。このままでいいじゃない」と覚悟を決められ、「生きていてくれるだけでいいんだ」と思えたときに、子どもは学校へ行くなり、別の道を歩みだすなり、とにかく自分の意志で前に進みはじめるようになるんだそうです。
多くの先生が口を揃えて言うのは、誰かが一人でも見守ってくれていることがわかっていれば、子どもは決してねじまがらない、と。もしも子どもがねじ曲がってしまったら、それは周囲の大人が誰も何もしなかったということ。つまり、見てなかったということです。だから、子ども自身のせいではないとおっしゃっていたのが、心に残っていますね。
小川:見守る、というのは、ただ「見る」というのとは違うんでしょうね。僕は、「子どもの何かを心底好きになること」なんじゃないかと思いますね。子どもに興味を持つこと。自分はこの子のここが好きだから見る、という感じ。
おおた:見守っていると、子どもが何かのタイミングでチラッとこっちを見るはずなんですよ。「今、僕がんばったよ、見ててくれた?」みたいなね。比喩的に言えば、そこでアイコンタクトが取れるかどうか。それくらいの距離感がいいんだと思います。
小川:「この子が20歳になったときに、どうなっていればハッピーかな」というビジョンを持ちつつ、ゆったりと構えていたいですね。
おおた:いい親であろうとするその力を、フッと抜くことが必要なのかもしれないですね。そうすると、フラットな目線で子どもを見ることができそうです。
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