「大英断でした。父親は遠州で優秀な織物の職人でしたが、すでに日本の綿織物は斜陽産業でしたから」
にこやかな顔で当時の話をしてくれる、社長の福田靖さん。でも若い頃は、掛川でヤンチャな青春時代をおくっていたようです。
「学校をズル休みして、つま恋に吉田拓郎のオールナイト野外コンサートを見に行ったりしていましたね。夜遅くまで自転車操業している職人の両親に反発して、俺は父親みたいな生き方はしない! 成功してやる! と、ずいぶんイキがったことを言っていました」
20歳で家業に入ると、片っ端からビジネス書を読んで儲かる仕組みを猛勉強。全国の織物産地を訪ねて何日も通い詰めて、職人から織物の技術も習得する。28歳で父親より稼ぐようになり、織物の技術は浜松で一番になる。しかしまだ若い福田さんに、下請けの製造業をやめる決断はできなかった。
転機は30代の時。生地を出した展示会で、ある女性のデザイナーが1枚の綿のハンカチを福田さんに見せて「これと同じ生地を織ってほしい」と注文してきた。
「150年前のアンティークの手織りのハンカチでした。織物の技術は浜松一という自信もあったので2つ返事で引き受けました。ところが了承を得てハンカチを裁(た)ってみると、国内で見たこともない細い糸なんです。調べたらスイス製の100番手とわかり、すぐにスイスから取り寄せて織ってみたのですが、細すぎて織機にも掛けられない。すぐ切れてしまう。とんでもない仕事を引き受けてしまったと思いました。よし、絶対に織ってやると、それからはもう試行錯誤の日々です」
ヒントをくれたのは、若い頃にはさんざん反発していた織物職人の父親の実さんだ。複数の糸を撚(よ)って織るのが常識だった当時、「1本のまま弱く撚ったら切れないんじゃないか」という実さんのアドバイスで、1年掛けてついにハンカチと同じ生地が完成する。
その噂は、100番手の糸を販売するスイスの老舗ブランドのヘルマンビューラー社にまで伝わり「うちの糸を機械で織れるわけがない」と、なんと糸商が掛川まで見学にやって来た。生地を見るなり感嘆して、「福田織物の技術は世界一だ!」と大絶賛。