権威への盲従のメカニズム
仮説として、日大アメフト部の部員が、監督やコーチから何らかの形で悪質タックルを指示されたとしよう。彼は「もう1人の自分」から、「相手チームの選手に酷い怪我をさせるかもしれないし、最悪の場合、後遺症や死亡に至らせるかもしれない。そういう指示に従うな」と、指示に盲従しようとする自分が否定されるであろう。
この「もう1人の自分」との格闘がいかに苦しいものか。そこから逃げ出すには、「深く考えること」を回避するのが最善の手段となる。これを日常的に繰り返すことで習慣となり、ついにその「逃げ出す行為」の存在にすら気付かなくなる。つまり、無意識に「深く考えること」をしなくなるのである。
2018年4月4日、大相撲春巡業中の出来事。土俵の上で挨拶をしていた舞鶴市の多々見良三市長は突然その場に倒れた。複数の女性がとっさに駆け寄って応急処置に当たったところ、行司が場内アナウンスで「女性の方は土俵から下りてください」と繰り返し呼びかけた。
大相撲では伝統的に女性が土俵に上がることを禁じているが、1秒を争う人命救助を前にして明らかにその価値判断は間違っている。「どんな伝統や規則よりも、人命救助を最優先せよ」という「もう1人の自分」がついに出てこなかったわけだ。「女性は土俵に上がるな」というアナウンスをする行司と、それを否定する「もう1人の自分」の戦いすらなく、本能的にリアルな自分が先行してしまったのかもしれない。
その行司は世論に批判された。しかし、われわれ一人ひとりがいざその場に置かれた場合、「もう1人の自分」が出てくるのだろうか、そして自分に対する否定を瞬時に受け入れられたのだろうか、胸に手を当ててみたい。
いざ問題が表面化すると、世論が動き出す。世論の参加者はほぼ全員事件に無関係な人たちであり、つまり世論そのものが外野の騒ぎにすぎない。自分に無関係である以上、外野の一人ひとりがみんな、当事者の「もう1人の自分」(正義の代弁者)になるのである。事件がすでに発生した(している)のだから、事後に現れた「もう1人の自分」は牽制役でなく、批判者に転じるわけだ。
前述の通り、多くの日本人は、無意識に「深く考えること」をしなくなっている。上位者や規則、既存の権威に無条件に従い、環境に順応することが本能化してしまったのである。環境への順応はあらゆる生物の自己保存本能である以上、果たして批判の対象になり得るのだろうか。
現状に対する批判は、ある意味で現状への変革願望を表わす。建設的な動きに持っていくには、特定事件の特定人物に対する批判や非難にとどまらず、その背後に隠されているメカニズムをえぐり出し、社会規模の構造改革に取り組まなければならない。ただ、いざ気がつけば批判者や改革者自身も、部分的であれ、現行体制の受益者だったりする。それでも改革者の一員になれるのか。三人称ではなく、一人称で既得利益にメスを入れると。
本題の西川社長の話に戻ろう。