関ケ原合戦と天皇の政治参加
その武将とは細川藤孝(幽斎、1534~1610)です。この藤孝さんは室町幕府の三管領の一つ、細川氏の流れをくむ名門とされることもありますが、実際にはその直系ではないようです。
それはともかく、藤孝は足利将軍家の家臣から織田信長に評価されて山城国長岡(現・京都府長岡市)に所領を与えられる大名に出世します。本能寺の変で信長が倒れたことで領地の丹後国(現在の京都府)宮津と家督を息子の忠興に譲りますが、信長の跡を継いで天下人となった豊臣秀吉からも重用されます。
天下分け目の関ヶ原合戦では、忠興が家康率いる東軍側で参戦して勝利に貢献し、細川家は豊前国小倉に39万石あまりを統治する立派な大名となります。藤孝や忠興の死後ですが、最終的には肥後(現・熊本県)54万石を治める大大名にまで細川家は上り詰めるのです。
華麗なる出世を遂げた藤孝ですが、それは単に運が良かっただけなんてことは当然ありません。政治的手腕に優れていたことは言うまでもなく、和歌文芸を初めとして料理や囲碁など諸芸に通じ、「達人の域」とまで評されています。
これだけでも凄く、教養が深い文化人と形容されることがしばしばの藤孝ですが、実は剣豪・塚原卜伝に剣術の指導を受けるなど武芸にも秀でていたのです。
この藤孝さんが、関ヶ原合戦で勝敗の帰趨を決するような重要な役割を担うのですが、そこには天皇の政治参加が大きく関わっているのです。この天皇の政治参加こそ、藤孝が体得していた秘伝が大きく関係していたのです。それは、日本古来の和歌に関するものでした。
関ヶ原の戦いへと至る家康による会津遠征・上杉討伐では、細川家は当主の忠興が主力を率いて家康に従っていました。その頃、藤孝は隠居所とも言うべき丹後の田辺城にいたんですが、西軍首謀者の石田三成の指示で1万5000もの軍勢によって田辺城は包囲されてしまうのです。
対する藤孝率いる田辺城に籠もるのは、その30分の1の500。どう考えても落城は必至の状況です。城攻めには籠城の3倍の軍勢が必要とされますが、それを10倍も上回る30倍で囲まれているのです。援軍があってこその籠城と言われますが、このときの藤孝には援軍のあてもありません。
それでも優秀な藤孝は60日、2カ月にもわたって持ちこたえます。そして、孤立無援、いよいよ討ち死にを覚悟する藤孝。
そこで動いたのが後陽成天皇でした。藤孝は「古今和歌集」の解釈を師から弟子に伝える「古今伝授」なる奥義を体得していたのですが、その奥義が絶えることを惜しんだ時の後陽成天皇が停戦を求める勅使を派遣しました。
そもそも奥義の教えを受けていた智仁親王が再三にわたって藤孝に和睦を促したのですが、藤孝は応じなかったのです。そのことにしびれを切らした親王は、勅使を派遣して和睦して欲しいと天皇にお願いしたのです。藤孝の特技が天皇を動かしたのでした。
その結果、ようやく停戦が実現し、藤孝も生きながらえます。そして、結果論かもしれないですが、田辺城の包囲を余儀なくされた西軍1万5000は関ヶ原の本戦に参加できず、家康率いる東軍が関ヶ原の戦いで勝利を収めることになるのです。この田辺城籠城戦が西軍敗北の一因になったとの指摘もあるほどです。