老いらくの(肉欲を超越した?)恋
しかし、老いらくの(肉欲を超越した?)恋ならば、やはり良寛と貞心尼だろう。
文政13(1830)年の夏から秋にかけて、74歳の良寛は激しい下痢に悩まされた。大腸ガンではなかったかと言われる。
〈言(こと)に出でて言へばやすけし潟腹(くだりばら)まことその身はいや堪(た)へがたし〉
悟りを得た無欲の人も病気には勝てない。けれど、島崎村(現、長岡市)の庵で独居する良寛には心を許した美貌の愛弟子がいた。
貞心尼である。30歳の時、貞心尼は弟子入りを乞うたため手鞠(てまり)を携えて70歳の良寛の下を訪ねた。やがて2人は、悟道と和歌を通じて急速に親しくなり、40歳という年の差を超えて肝胆相照らす仲になった。
師走に師の病状を聞いた時にも、貞心尼は福嶋村(現、長岡市)から雪の峠を越えて駆けつけた。献身的な看病にもかかわらず、良寛の病状は悪化の一途。貞心尼は一首詠んだ。
〈生き死にの界(さかい)離れて住む身にも避(さ)らぬわかれのあるぞかなしき〉
すると、衰弱状態の良寛の口が動いた。
〈うらを見せおもてを見せて散るもみじ〉
自分のいいところも悪いところもすべてを見せた、思い残すことはない。辞世の句である。
この句は良寛独自ではなく、美濃(岐阜県)の俳人・谷木因(たにぼくいん)の句(裏ちりつ表を散つ紅葉哉に拠ったとされるが、元の句を超越している。
翌年1月6日、雪降りしきる越後の夕、「大愚」良寛は静かに冥界(めいかい)へと旅立った。
山田も記すように貞心尼は「名を後世に残そうという気のなかった良寛の伝記や詩や歌をのちに伝えた最大の功労者」だったが、そうした死後の出来事とは別に、意識の薄れゆく良寛個人にとって、自分を取り巻く末期の席に家族(弟・由之など)以外に美しい異性の顔を確認できたということは、それだけで大きな喜びであっただろう。
詩的生活の最後を締めくくる一片の色気、それが大切なのかもしれない。
現代に生きる91歳の女性俳人・柿本多映(たえ)さんも歌っている。
〈おくりびとは美男がよろし鳥雲に〉
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