降り続いた長雨のせいか、それとも単に馬齢を重ねたためか、この7月は山田風太郎の『人間臨終図巻(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)』(徳間書店)を眺めて過ごす時間が多かった。
この本は、古今東西の著名人の死に方を、医学を学んだ山田が「解剖学者が屍体を見るように」観察し、簡略な解説を加えたもの。
10代半ばで死亡した八百屋お七やアンネ・フランクから、121歳まで生きた泉重千代までを、年齢ごとに3巻に分けて収めてあるが、やはり気になるのは自分の年齢前後で亡くなった文学関連の人々だ。
私の好きな与謝蕪村は67歳で逝去した。
京都の室町綾小路に住んでいた蕪村は、天明3(1783)年秋に体調を崩して寝込むようになり、12月半ばから病状が悪化した。
門人に「言い残すことはない」「若い頃の漂泊の苦労に比べれば、今は安楽」「離縁されて戻った娘くのが心掛かりだが、今更そんなことを案じても」などと語っている。
24日夜、病状が一時和らいだ時に、弟子の松村呉春を呼んで病中吟を書き取らせた。
〈しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり〉
翌日暁に往生。この句が辞世となった。
山田は、「辞世らしくないところが、純粋に“詩”に生きた蕪村らしい」と解説する。
まだ冬だが、冷たく清潔な、白梅の香が漂う(無限の?)日々がもうきている……。
山田が蕪村の項の最後に記すように、蕪村の俳句は死後忘れ去られ、完全な句集の復刊は約140年後の大正末年だった。
だが、その点は問題ではない。
重要なのは、泰平の世に生まれた蕪村が、都の片隅で妻子と小市民的生活を送りながら、死の寸前まで「詩心」を貫徹したことだ。
モノカキの目指すべき死に際、であろう。
もっとも、生前の蕪村は些(いささ)か慎ましすぎた(近年、蕪村の死の前年の、弟子への借金依頼の手紙が見つかった)。目を海外に広げ、生前すでに「大詩人」だった人物ならどうか。
例えば、世界の文豪ゲーテ。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは1749年にフランクフルトで生まれた。
裕福な家庭に育ち、小説『若きウェルテルの悩み』により25歳で欧州一の人気作家となり、翌年ワイマール公に招かれて政界に参入。枢密院参事官から宰相にまで昇りつめた。
その一方、シュタイン夫人など多くの女性との恋愛で知られ、地質学、植物学、色彩学、解剖学などを専門的に研究、ナポレオンやベートーヴェン、ハイネらと親交を重ね、併行して「世界文学の最高峰」とされる『ファウスト』を執筆、82歳の死亡時までに完成させた。
体は頑健で性格は朗らか、結婚して1男2女に恵まれ、生涯を通じて貧しさと無縁。一人の人間としても輝かしい一生だった。
山田は森鴎外の文を引用し、病気が重くなった1832年3月22日に、腕付の椅子の左の隅に身を寄せ掛け亡くなった、とする。
「よめに“握手しよう”と云ったのと、家隷に“窓を一つ明けてくれ。明かりがもっと這入(はい)るように”と云ったのとが、最後の詞(ことば)である」(森鴎外『ギヨオテ伝』)
私は取材でワイマールを訪ねた時、ゲーテの臨終の椅子を間近に見たことがある。
広場に面したゲーテハウスは当時のまま博物館になっていた。2階の応接間、標本室、食堂、妻の部屋、書斎などを見て回った後、最後が息を引き取った寝室である。 意外に簡素なベッドの脇に古い肘掛け椅子が一つあった。その椅子に座ってゲーテは、「もっと光を」と呟きこと切れた。
ワイマール大公の霊廟で、親友シラーの棺と共に安置されたゲーテの棺に触れた時もそう感じたが、遺品や遺体に間近に接すると、それまで抽象的に思えた歴史上の人物が、急に生々しい存在として身に迫ってくる。
ところで、晩年のゲーテと言えば、山田も一言触れている10代の少女への恋がある。
ゲーテは72歳の時、ボヘミアの温泉地で17歳の少女ウルリケと出会い、恋をした。3年続けて通い、正式に結婚を申し込んだが断わられた(ゲーテ74歳、ウルリケ19歳)。
この行為が単なる老醜でないのは、失恋から生まれた『マリエンバードの悲歌』が、「ゲーテ作の一番美しい詩」になったからだ。
残りの生命の乏しさを知った「詩人」は、回春の炎の中に自らの最後の可能性を見ようとしたのかもしれない(蕪村も64歳の時、知人に批判されながら祇園の妓女・小糸に恋情を寄せた。