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2019年8月1日

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樫山幸夫 (かしやま・ゆきお)

元産經新聞論説委員長

元産經新聞論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員、産経新聞社監査役を歴任。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

冷戦時代だから支持得られた政策

 社民党の前身、日本社会党が、安保条約廃棄、非武装中立、自衛隊違憲などの主張を掲げていたのは、1950年代以降だが、それが一定の支持を得ることができたのは、米国と旧ソ連による冷戦という時代背景があったからだった。

 双方の対立がたかまっていた当時、米国と同盟関係を維持すれば、戦争に巻き込まれると、〝進歩的文化人〟を含む日本国内の左派が強く懸念、これを代弁する形で旧社会党の政策が生まれた。世界にもほとんど類を見ない奇妙な非現実的な政策、「非武装中立」がその核だった。 

 冷戦の終焉によって、米ソ対立の危険は去ったが、今世紀に入って、新たな脅威が台頭してきた。いうまでもなく中国の軍事大国化、膨張政策であり、北朝鮮の核開発、ミサイルの脅威だ。米中の対峙は「新冷戦」といわれるまでにエスカレートしている。米同時多発テロやイスラム国に象徴される大規模テロ組織の跳梁も、これまでなかった新しい国際秩序への挑戦だ。

 こうした状況の中、日米同盟、自衛隊の重要性はいくらでも指摘できようが、社会党、社民党はかたくなに冷戦時代の安保政策に拘泥し続けてきた。あたかも、特定の少数の有権者からの支持を集めればよしとしているようにだ。

一度は現実路線に転換

 社会党は実のところ、かつて大幅に軌道修正し現実路線に転換したことがある。

 1994(平成6)年、村山富市委員長(当時)を首班とする自民、社会、さきがけの3党連立政権が登場した時だ。村山首相は、それまで反対していた日米安全保障条約を肯定、違憲としていた自衛隊も合憲とした。

 しかし、社民党時代になってから2006(平成18)年の第10回党大会で、「自衛隊は現状、明らかに違憲状態」「憲法改悪反対」などを宣言、村山内閣の見解を実質的に見直し、先祖返りしてしまった。

 今回のマニフェストもこれをそっくり踏襲しているが、社民党が柔軟路線を維持していれば、その後の日本の政界、民主党、立憲民主党などの登場にも影響を与えたかもしれない。社会党の先祖返りは、リベラル勢力を衰退させ、現在の自民党一強の遠因となったといえるかもしれない。

「55年体制」支えた一方の雄

 日本社会党は終戦の年の1945(昭和20)年、戦前、戦中の非共産系の合法社会主義勢力が大同団結して結成された。社会民衆党、日本労農党などが中心で、民主主義の到来を機会に、社会主義の新日本を建設しようという大目標を打ち立てた。

 昭和22(1947)年、新憲法施行後の初の総選挙で第1党となり、日本民主党などとの連立ながら片山哲委員長を首班とする内閣を組織した。 

 片山内閣は短命におわったが、1955年(昭和30年)に左右両派が合併した後は、野党第一党としてピーク時には議員200人を超える大世帯を誇った。やはり同じ年に発足した自民党(自由民主党)とともに「55年体制」を支え、衆参両院選挙、国会論戦でしばしば自民党を脅かす大きな存在であり続けた。

 1989年(平成元年)の参院選では46議席を獲得、36議席の自民党を圧倒した。土井たか子委員長のもと、多くの女性候補を擁立する〝マドンナ旋風〟で、「山が動いた」(土井女史)といわれたあの選挙だ。時の首相、宇野宗佑氏の〝女性スキャンダル〟が明るみに出て女性有権者を中心に反発を買ったのもこの時だ。 

 連立政権の一翼をになったこともある。 

 1993(平成5)年7月の総選挙で自民党が大敗、細川護熙氏(日本新党代表)を首班とする非自民・非共産連立政権が登場した際には、6人の入閣をみた。しかし、社会党自体はこの選挙で136から70へと大幅に議席を失っており、存在感を発揮できなかった。 

 この後に、念願だった政権獲得が廻ってくる。

 1994(平成6)年春に細川首相が退陣、羽田孜内閣も短命に終わった後だ。すでに述べたが、当時の村山委員長が、自民、新党さきがけとの連立政権の首班に担ぎ出された。これよって長年の夢は実現したが、選挙で勝利しての政権ではなく、ポストを欲しがる自党議員の離党を防ぐための河野洋平自民党総裁(当時)の決断の産物であり、政権は弱体、不安定だった。 

 村山首相が日米安全保障条約を肯定、自衛隊合憲を打ち出したのも、政権安定を模索したからだった。

 その後は衰退の一途をたどり、1996(平成8)年に現在の社会民主党に党名を変更した後も党勢挽回はならなかった。同じ年に民主党が結党されると、多くの有力議員らがそちらに流れ、小規模勢力のまま、今日に至っている。

 日本社会党には、かつては国民に愛された魅力あるスターが数多くいた。

 昭和22年の連立内閣を率いた委員長、片山哲。その内閣で官房長官を務め、後に民社党を結成した西尾末広。1960(昭和35)年の安保反対闘争を指導、日比谷公会堂で演説のさなかに凶刀に倒れた浅沼稲次郎。有事の自衛隊の図上演習「三矢研究」を国会で暴露した岡田春雄。時代は下るが、やはり安保、防衛問題の論客で鳴らした石橋政嗣らの各氏らだ。いまなおこれらの名を記憶にとどめている人も少なくあるまい。

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