では、香港人が香港を必要としているのか?
では、「香港人自身が香港を必要としているか?」という命題を考えてみたい。実はそれが今の香港を見る上で大変重要なポイントだ。もちろん「香港人とは誰のことか?」が前提ではあるが。
まず、エスタブリッシュメントという層だけでも、いろんな利害関係集団が存在している。政治的な繋がりで北京と共同体をなしている「体制派」もその対立面に立つ反体制派も香港というプラットフォームを必要としている。財界も同じ原理だが、李嘉誠氏のような、資産ポートフォリオの再編で中国や香港からフェードアウトした強者もいる(参照:『香港の財閥地主を新たな敵に仕立てる中国政府の狙い』)。
李氏にとってみれば、経済的にも社会的にも香港はあってもなくても困らない。むしろ、生涯を通じて香港との間に紡ぎ上げた繋がりを凝視しながら、この地に最後の足跡を残そうとしているのは、このセンチメンタルな老紳士である。香港を捨てたが、忘却はしない、愛情を持ち続けるという神級の人物である。
次に、一般的な富裕層、あるいは中産階級の上層部。彼たちは「第二次返還」のつもりで移民や海外送金に走り、香港からの脱出準備に余念がない。この層は少なくとも身の危険を冒してまでデモに参加したりはしない。
最後に、騒動に加わった香港人、その大半は若者。出世する空間も、海外移住する経済力もなく、社会の最底辺で辛うじて食いつないでいる若者たちである。日本にも、似たような環境に置かれた若者がいる。日本人の場合、「自己責任」という自由主義社会の原理に違和感を抱き、政治や社会の「不作為」や「放任」に他者責任を見出そうとしがちだが、これに対して香港人若者は、自由なき政治や社会の責任を追及し、自由を求める抗争に乗り出している。問題は同根ではあるけれど。
人間が不幸になれば、必ず自分の外部(他者)に責任を求めようとする。「誰のせいだ」を問うという本能的な衝動だ。異なる政治や社会はその命題に、異なる「材料」や「根拠」ないし「答え」を提供している。
仮説を立てよう。今の香港に完全な自由投票に基づく民主主義制度を導入した場合、これらの若者は幸せになれるかというと、答えは見えている。社会の底辺は消えない。底辺は常に抗争しようとする。もしかすると、異なる訴求をもつ異なる種のデモが行われるかもしれない。しかし、そのデモが過激になるにつれ、同じく「覆面禁止法」が施行されるかもしれない。
「覆面禁止法」は何も今の香港に限った話ではない。ヨーロッパのオーストリアにもある。しかも集会やデモに限らずより広範囲の公共の場を対象としている。なぜオーストリアに問題がないのに、香港はダメなのか。その原因は民主主義社会の自由に対する制限と独裁社会のそれとの異質性にある。