2024年11月22日(金)

田部康喜のTV読本

2012年4月4日

 記者の水沼幸三は、避難所になった学校の教室のドアをそっとあけて、声をかける。毛布にくるまって横になるひとが、床を埋め尽くしている。

亡くなったこどもを抱える父親

 震災の翌朝、仙台から気仙沼に夜を徹して、同僚とたどり着いた記者の丹野綾子が目撃したものは――

 幼稚園の名札を胸につけた、こどもの遺体を抱く父親。死を認めがたい父親は、丹野が乗ってきた乗用車に同乗して、避難所の医師に診断を迫る。

 がれきに埋もれて足先だけがのぞいた遺体。安置するところへ移そうとする丹野に向かって、消防団員が声をあららげる。「このままにしておけ。生存者を探すことのほうが大事なんだ」。

迫る締め切り 手作りの壁新聞

 日日の壁新聞の締め切りは、迫っていた。社長の近江は、停電の町では夕暮れまで読めることが必要だと判断した。掲示する場所は、避難所4カ所とコンビニ2カ所に決めた。計6枚の新聞である。

 編集部長の武田が読み上げる原稿を、近江が新聞用紙を切り裂いて作った壁新聞に書いていく。

 「武田さん、そんなに入らないよ。まず、大きな災害が発生したことを載せよう」

 手書きの壁新聞に大きな横見出しで「日本最大級の地震・大津波」、そして、左側に寄せて、これも大きな字が躍っている。

 「正確な情報で行動を!」

津波で流された支局

 河北の三陸町にある志津川支局は津波で跡形もなく流された。駐在している記者の渡辺龍は、本社に幾度も連絡を取ろうとしたが、通信は不通だった。震災後の朝刊の締め切りが迫っていた午後7時ごろ、奇跡のようにつながった。渡辺は見たまま、聞いたままを、撮影したデジタルカメラの写真をみながら、電話に出た記者に口伝えのように、書き取らせた。

 朝刊の社会面トップに、渡辺署名のルポルタージュが載った。

 「大津波 街消えた」。


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