「資源の罠」
資源があることがかえって資源国に災いをもたらすということだ。資源の存在は、その争奪を巡り絶え間ない争いをもたらすし、外国の介入も招きやすい。何より、国民が安易に資源の恩恵に胡坐をかく。逆に、資源がない所は、生き残りをかけ、必死の思いで産業化を図り成功する。
日本がまさにそうだし、シンガポールなどもいい例だ。資源の存在がかえって産業化への離陸を阻害するとの例は決して少なくない。そしてもう一つ、ラテンアメリカの一次産品依存は植民地体制に端を発する。一次産品依存から脱し、産業を多角化するとは、植民地体制を清算するということでもある。しかし、これは一朝一夕にできることではない。新たな中間層を軸に社会全体を作り変えていくこと、即ち、社会の分断を克服していくことと密接に絡む一大作業である。ラテンアメリカは結局この作業を完遂することができなかった。
経済が曲がり角を迎えたのが、ちょうど2010年代半ばごろだ。一次産品ブームが終わり、ラテンアメリカ経済が一様に低成長の時代に入る。成長率は2011年、4.6%あったのが2019年には0.2%まで落ちた。2019年、世界の新興国全体の成長率が3.9%とされる時にだ。今や貧困率は30%になった。ラテンアメリカの3人に1人が一日1.9ドル以下で暮らす。ラテンアメリカ諸国の政府は、国庫収入の不足を対外借入に頼った結果、対外債務の対GDP比が27.4%(2011年)から48.9%(2019年)にまで膨らんだ。
これまで人々は年々増え続ける所得により、将来に対する明るい希望を持っていた。もともと国の中には一握りの富裕層の贅沢三昧の暮らしがある。人々はそれを見ても、やがて自分もそういう暮らしができるのだと信じむしろ憧れを抱いた。しかし、経済が下降線をたどりつつある今、そういう富裕層の生活は怨嗟の対象でしかない。所詮、彼らの贅沢は汚職でためた金だ。国民に均霑されなければならなかったものだ。元々「社会が分断」されたラテンアメリカだ。国民の間に信頼感がない。一般国民と富裕層との間に新たな溝が生まれるのに時間はかからなかった。