インドでは、2019年12月11日に下院で市民権法の改正案が通過し、翌日12月12日、同改正法は大統領の同意を得て公布された。この市民権法の改正によって、2014年12月31日以前にインドへ入国したアフガニスタン、バングラデシュ及びパキスタンからのヒンドゥー教徒、シク教徒、仏教徒、ジャイナ教徒、ゾロアスター教徒、キリスト教徒の難民に対して、インドの市民権が与えられることになった。
ここで気づくのは、今回の市民権法改正が、イスラム教徒の難民への市民権を認めていないことである。これについて、政府与党・インド人 民党(BJP)は、アフガニスタン、バングラデシュ及びパキスタンはイスラム諸国であり、そこで迫害を受けたマイノリティーである難民を受け入れるものであると説明する。しかし、インドには、スリランカやミャンマーという仏教諸国から逃れてきたイスラム教徒の難民もいる。それらイスラム教徒がなぜ排除されているのか、モディ首相はヒンズー至上主義に傾きすぎていないかとの批判があり、改正市民権法が成立すると、首都ニューデリーでは抗議活動が起きた。
英国エコノミスト誌の1月25日-31日号の表紙には、「不寛容なインド:どのようにモディは世界最大の民主主義を危険に陥れているのか」と、皮肉な言葉が書かれている。
改正市民権法はイスラム教徒とそれ以外の人々を区別し、前者への市民権付与をより困難にするものである。これは不寛容というより、イスラム教徒を差別する政策である。
人が何をやったかではなく、どのような人か、例えばユダヤ人か、黒人かイスラム教徒か等によって不利益を与えることは、やってはいけない差別であると考えられる。このような差別的な法律はインド憲法上、問題があると思われる。1月25 日-31日号のエコノミスト誌の社説は最高裁が憲法違反と宣言すべきであると主張しているが、根拠のある主張であろう。
インドが色々な宗教が共存する世界最大の民主主義国として今後も存在し続けることは、世界にとって重要である。中国は14億の人口を抱え、民主主義を実行しえないと中国人にも外国人にも言う人がいるが、インドはそう言う説に対し、生きた反証を提示してきた。モディ首相は、インドの民主主義を守ることで、民主主義的統治が人口の大きさや多様性があっても機能することを示し、この点について大きな貢献をすることができる。
民主主義は国民の多数が望む政権、政策による統治と解される場合が多いが、多数派は選挙で政権を獲得すれば、少数派を差別する政策など好き勝手にやっていいということではない。人権の尊重など自由主義の考え方から来る制約を尊重しないと、民主主義はきちんと機能しない。
英語では、liberal democracy(リベラル・デモクラシー)というが、民主主義体制を表す言葉として、これは適切な表現であると思われる。今度の市民権法は人権無視の差別法といってよく、自由民主主義を掘り崩すものである。また、自由民主主義は、いろいろな考え方が競い合う社会を前提とするという意味で、自由民主主義国の政権は価値判断に関しては、特定の考えを押し付けない中立性や政教分離を前提とする。言い換えれば世俗国家としてのみ成り立つものである。
インドにおいて、ヒンズー的価値を至上のものと押し付けるというのであれば、自由民主主義に反すると思われる。 社会の異なる成員間の抗争を劇化させる事は、国民の大多数のヒンズー教徒の支持固めに役立つだろうが、禁じ手を使っているように思える。
モディ首相は、現状でも政権を維持できる十分な支持を国民から得ている。インド社会を分断し、イスラム教徒とヒンズー教徒を対立させ、インドの民主主義を両者の抗争の中で機能不全にしてしまうのは不幸なことである。
モディ首相は、ヒンズー社会とイスラム社会の敵意を煽るのではなく、国民の心に届く別の道を探すべきだろう。 今日必要なのは分断よりも融和であり、インドの団結であると思われる。
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