赤坂英一の野球丸

2020年2月26日

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もっともっとアピールしていきたい

 この日の真っ直ぐの最高速度は146㎞と、徐々に全盛期のスピードを取り戻しつつある。「空振りやファウルを取る球も決まっていた」と自己評価しながら、「捉えられた球もあるので、もっと配球やサインの意図を考えないといけない」と反省も忘れなかった。

 そして、広報担当の矢貫が呼び寄せた沖縄の報道陣の前で、與那原はこう言っている。

 「きょうは両親も球場に来ていたので、恥ずかしい投球はできないと思ってました。いいピッチングをする姿を見てほしかった。マウンドに行ったら、温かい拍手をいただいて、やってやろう、という気持ちになれました。それがよかったんだと思います。きょうだけに限らず、まだまだ、もっともっとアピールしていきたいです」

 そんな與那原を見守っていた矢貫は、自身も現役時代、地元の友人知人、メディア関係者のおかげで、大いに元気づけられた思い出があるという。13年、出身地の福島でオールスターゲームが行われたときのことだ。

 矢貫は福島県西白河郡西郷村に生まれ、中学時代から本格的に野球に取り組み、高校野球の強豪・仙台育英高校の門をたたいた。チームは在学中の01年春の甲子園で準優勝しているが、矢貫自身はベンチ入りメンバーにすら選ばれず、アルプススタンドで応援に喉を嗄らしていたという。

 高校卒業後、茨城・常盤大学2年時に頭角を現し、社会人の三菱ふそう川崎(三菱ふそうトラック・バス)で素質が開花。先発と中継ぎで08年の都市対抗進出に貢献すると、その年の秋、ドラフト3巡目で日本ハムに指名を受けた。

 現役時代のキャリアハイは5年目の13年だ。矢貫は中継ぎで57試合に登板し、2勝3敗13ホールド、防御率3.43という好成績をマーク。この年のオールスターゲームにも日本ハム・栗山英樹監督による監督推薦で選ばれ、地元・福島のいわきグリーンスタジアムでの第3戦に、現役生活最初で最後の球宴登板を果たした。

 オールスターは通常2試合しか行われないが、東日本大震災が発生した11年から13年までは、復興支援の一環として被災地で第3戦が行われていた。13年の福島は最後の開催地である。そういう特別な試合に、矢貫は全選手中ただひとりの福島出身選手として参加。スタンドにはもちろん、家族や縁者、中学時代の恩師から少年野球チームの後輩に当たる子供たちまで、大勢の〝矢貫ファン〟が詰めかけた。

 そうした中、矢貫は七回を三者凡退、無安打無失点に抑えた。たった1イニングでも、福島のマウンドは彼にとって野球人生最高の晴れ舞台となった。

 「そりゃあ緊張しました。地元の人たちの前で投げるときは、期待もすごいぶん、独特のプレッシャーもある。でも、それがモチベーションにつながるし、いい結果を出したときの喜びも大きい。そういう選手の姿を、地元のメディアの方々は温かく伝えてくれるじゃないですか。與那原にも、きょうのオープン戦の結果を弾みにして頑張ってほしい」

 地元の応援とメディアに支えられていた元投手が、いまはこうして広報担当のスタッフとして選手と地元メディアの橋渡しを務めている。與那原の投球とコメントを詳しく伝えた琉球新報など地元紙の記事は、いまでもネットで読むことができる。そんな矢貫のアシストに応えて、與那原が一日も早く支配下選手に復帰できることを祈る。

 (文中敬称略)

  
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