赤坂英一の野球丸

2020年2月26日

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 「沖縄のメディアの方々、これから正面玄関まで来ていただけますか。間もなく、與那原の囲み取材を行いますので、はい。大至急でお願いします、できれば」

 オープン戦が開幕した2月16日、沖縄セルラースタジアム那覇で巨人-DeNA戦が行われていた中、スマホで取材の手配をしている球団スタッフがいた。黒とオレンジを基調としたジャイアンツカラーのジャージに190㎝の長身を包み、下履きの左太腿には「PUBLIC RELATIONS」というロゴが入っている。

 彼の名前は矢貫俊之。以前はリリーフ専門のれっきとした元プロの投手で、2015年まで日本ハム、16年の1シーズンだけ巨人で投げていた。その年のシーズンオフに戦力外通告を受け、翌17年から巨人の球団職員に転身。昨年からチーム付の広報担当となり、36歳のいま、このように連日ベンチ裏でマスコミの対応に当たっている。

沖縄セルラースタジアム

 オープン戦では試合中に順次、出番の終わった選手がテレビインタビューと記者の囲み取材を受ける。この日の巨人では、先発して3回5安打2失点だった2年目の左腕投手・髙橋優貴、オープン戦初打席で初安打を打った新外国人ジェラルド・パーラなど、まずは今シーズンの主力と期待されている選手たちが正面玄関の会見場所に登場した。

 初安打が左翼への二塁打となったパーラは当然上機嫌だった。試合前に、同じベネズエラ出身のDeNAアレックス・ラミレス監督と親しく話していたことを聞かれると、「ラミレスは僕の母国では大変な有名人だからね、挨拶しようと思ってたんだよ」と回答。ラミレス監督の現役時代の動画も何度も見ているそうで、「詳しいことまでは言えないけど、日本でプレーすることについていろいろ助言してもらった」と、笑顔で話していた。

 パーラは今年の巨人の新戦力の中では一番の大物で、試合中の会見に参加する報道陣の人数も多い。ベテランの記者やアナウンサーも少なくなく、いかにもプロ野球の取材現場らしい華やかな雰囲気が漂う。

 その後、登板を終えた育成選手の投手たちの会見の番になった。六回1イニングを三者凡退、奪三振1個に抑えた19歳の沼田翔平が会見場にやってくる。すると、途端に報道陣の数が減った。囲んだ記者たちも、私と親子ほども年齢の離れた若い人たちばかり。自分の年齢を痛感するのもこういうときである。

 沼田もまだいわゆる〝プロの顔〟になっていない。それでも、いや、だからこそ、こういう無名の若者が、いまとは違う〝何者か〟になろうとしている姿を見るのは楽しいものだ。この会見で、沼田はこう言った。

 「試合前のブルペンではあまりよくなかったんで、試合では何も考えず、とりあえずゼロで抑えたいと、それだけ思って投げました。自分で自分に、思い切っていけ! と」

 当面の目標はもちろん、育成から支配下への昇格だが、「それはあんまり考えないようにしています」と謙虚な返事。「変に(支配下を)意識すると、力んじゃいますから」というコメントが初々しさを感じさせた。

 広報担当の矢貫がスマホで沖縄のメディア関係者を呼び寄せたのは、そんな沼田の次、21歳の育成選手・與那原大剛(ひろたか)が登板を終えた直後だった。與那原はこの日、七回1イニングを投げ、沼田と同様、やはり三者凡退、奪三振1個の結果を残している。

 與那原は沖縄出身で、189㎝、87㎏の体格を誇る大型右腕投手。地元では桑江中学時代から本格的速球派として注目され、県立普天間高校時代には野茂英雄ばりのフォームから最高速度148㎞の真っ直ぐを投げ込み、プロの注目を集めた。高校時代は甲子園まで進出できず、県大会のベスト8どまりだったが、予選の投球を視察するために11球団のスカウトが視察に訪れたほど。

 そして、15年秋のドラフト会議で、巨人が3位指名する。ちなみに、現在一軍で活躍している7年目の田口麗斗も、高卒で13年秋のドラフトで3位指名された。巨人が與那原をいかに高く評価していたかがわかる。背番号も中堅クラスの46が与えられた。

 しかし、與那原はプロ入り後、伸び悩んだ。1年目の16年は二軍で5試合に登板、1勝1敗、防御率2.08。2年目の17年は6試合、0勝2敗1セーブ、防御率4.71。この年9月、三軍戦に登板している最中に右肘を痛めて、内惻側副靱帯損傷と診断される。

 当初は手術の必要はないと医師に言われ、保存治療を続けて自然治癒するのを待った。が、一向に右肘の痛みが引かず、18年には再検査で悪化していることが発覚する。この年6月、メジャーリーガーの大谷翔平も受けた靱帯再建手術、いわゆるトミー・ジョン手術に踏み切った。

 右肘の回復には約1年かかるため、巨人はその年のシーズンオフに與那原を自由契約にすると、育成選手として再契約。46だった背番号は91を経て023となった。

 與那原は19年をリハビリに費やし、勝負の20年を迎えた。育成の契約期間は上限3年と決められている。ふたたび支配下に返り咲き、一軍のマウンドに上がるには、このオープン戦で結果を出さなければならない。

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