ただ、山本は機能性の高いこれらの素材にこだわった。「当社の唯一の財産」とも見ている縫製技術でカバーしようと試作を重ねた。その結果、ゴムバンドを組み合わせるなどで、完成に漕ぎつけた。この部分の構造は特許申請している。外側の速乾性素材はTシャツなどにも使われるもので、アセットは腹部ベルトとしては珍しく、素肌にそのまま装着できるようになっている。
断腸の思いでリストラを実行
妻と2人で再出発
山本の父親が1952(昭和27)年に創業した会社は、高度成長期に順調に業容を拡大していった。テレビの普及期には、ブラウン管を覆う布製のカバーを大量受注した。その後は、中高校生が体育の授業で着用した白のトレパン(トレーニングパンツ)、さらにスキーウェアなど、日本が豊かになっていく時代を映すような商品を手掛けた。
70年代半ばには、アパレルメーカーから婦人服の縫製を受注し、ほぼ現在の業態となった。当時、大学を卒業した山本は、やがて家業を継ぐ時のために、東京の大手婦人アパレルに入社し、営業、商品企画と経験を積んだ。80年に実家に戻り、役員として新規顧客の開拓や縫製工程の効率化などに力を振るった。父親からバトンを受けて代表取締役になったのは92年。バブル崩壊後であり、中国で加工する製品の急激な台頭もあって、経営環境は徐々に悪化していく。山本は日々、リストラ策に思いを巡らせるようになっていた。しかし、最盛期には外注先も含め60人ほどが従事していた事業の縮小を決断するのは容易ではなかった。
2年間考え続け、「このまま行くと倒産は不可避」と見た2000年に決断を下した。断腸の思いで、従業員には退社してもらい、山本は夫人と2人で再出発したのだった。この当時、発明協会の講習を受けたのが契機となり、単なる下請けではなく、縫製技術を生かした自社オリジナルの製品開発に踏み出した。
00年には、現在も生産を続けているメガネケースを第1弾として商品化し、他の商品を合わせ、これまで特許3件、実用新案1件を取得している。商品開発で山本が心掛けるのはシンプルに「お客様に喜んで使っていただけるもの」。今回のアセットには、かつてない手ごたえを感じている。アラ還の発明家は「まだまだ新しいものを作りたい」と、顧客の「喜び」を追い求めていく。(敬称略)