2022年12月9日(金)

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2021年5月31日

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樫山幸夫 (かしやま・ゆきお)

元産經新聞論説委員長

元産經新聞論説委員長。政治部で中曽根首相番、竹下幹事長番、霞クラブ(外務省)詰め、ワシントン特派員、同支局長、外信部次長、編集局次長、正論調査室長兼論説委員、産経新聞社監査役を歴任。2度のワシントン勤務時代は、ホワイトハウス、国務省などを担当、米国の内政、外交など幅広く取材した。

東京大会、戦後10年余で再誘致成功

 日本のオリンピック史上、最大の痛恨事、第12回東京大会の返上もやはり戦争だった。

 1936(昭和11)年、東洋で初めての誘致が決まり、ロンドン大会に先立つ1940(昭和15)年に開かれることになっていた。

 しかし、その翌年、日中戦争が勃発し、日本国内の財政事情がひっ迫。「中国への侵略」として、各国からの日本への反発が高まり、ボイコットの動きも出てきたため、日本政府は返上やむなしと判断した。

 同じ年の2月に札幌で開催される予定だった冬季五輪の返上も同時に決まった。当時は夏季五輪の開催国で冬季五輪も行われることが通例だった。

 ふたつの五輪中止が決まった直後、後に内大臣(明治憲法体制での天皇の補佐役)をつとめた木戸幸一氏が「極東で平和が回復したあかつきには、再び東京に誘致して日本人の精神を示すことができるだろう」と予言したが、それがいつ実現するかなど、当時はだれにも想像できなかった。

 しかし、それは意外に早く実現した。

 戦争の廃墟から立ち上がった東京は、1959(同34)年のIOC総会で、デトロイトなど欧米3都市を抑え、再誘致に成功。わずか10年余での悲願達成だった。

 東京オリンピックは64(昭和39)年10月に開かれ、日本選手団は金メダル16個獲得と大活躍した。老境に差し掛かった日本人なら、あの感激をいまだに忘れないだろう

 それから8年後の1972(昭和47)年2月に開かれたのが札幌五輪だ。ジャンプ70㍍級で日本勢がメダルを独占し、国内を沸かせたことも多くの日本人の記憶に残る。

 ちなみに、40年の東京五輪返上の代替開催地としてフィンランドのヘルシンキが選ばれたが、39年に第2次大戦がはじまったこともあって、やはり開催は不可能、結局、この年の大会はロンドン同様、中止となった。

 しかし、そのヘルシンキも1952(昭和27)年にやはり開催にこぎつけている。

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