明らかにされた丸山と橋川の差
次に冒頭に述べた橋川の丸山批判論考「昭和超国家主義の諸相」(拙編『昭和ナショナリズムの諸相』<名古屋大学出版会>1994年)を見て行くことにしたい。次のようなことが述べられている。
丸山は「超国家主義」を「国家主義の極端形態」と見なした。昭和のそれを明治期からなし崩し的に拡張した軍国主義的ナショナリズムとして、家族主義・大アジア主義などの特徴を持つものとして捉え批判したのである。しかし、橋川はこれを「玄洋社時代にさかのぼる日本右翼の標識であり、とくに日本の超国家主義をその時代との関連において特徴付けるものではない」と批判した。
「あの太平洋戦争期に実在したものは、明治国家以降の支配原理としての『縦軸の無限性、云々』ではなく、まさに超国家主義そのものであったのではないか」と見て、日本の「超国家主義」を日本の国家主義一般から区別する歴史的視座の構築を目指したのである。
そして、日本における「超国家主義」のスタートを示すものとして、朝日平吾の安田善次郎暗殺事件(1921年)を重視した。それは行き詰まった「生半可なインテリ」朝日平吾が大富豪安田善次郎に貧困な労働者向きの宿舎の建設を嘆願した上で刺殺し、自決した事件である。
「大久保利通の死、森有礼の死、星亨の死、それぞれの時代色を帯びた死であるが、安田翁(安田善次郎)の死のごとく思想的の深みは無い」「安田翁の死は、明治大正にわたっての深刻な意義ある死である」(読売新聞)
事件に至る朝日の軌跡に橋川は注目した。
「こうした不幸感の由来は朝日個人の経歴について見ればかなり明確である」「要するに継母故の家庭からの疎外、貧困と気質にもとづく学生生活からの疎外、馬賊隊参加と大陸放浪による日常的感受性の荒廃、その結果としてのあらゆる現実的企画の挫折といった諸要因によって醸成されたものであった」(橋川『昭和維新試論』)
朝日の「吾人ハ人間デアルト共ニ真正ノ日本人タルヲ望ム」という文章を、橋川は、大正という時代においては「吾人ハ日本人デアルト共ニ真正ノ人間タルヲ望ム」と読み替えても何ら問題はないはずだとした。
朝日は、当時の日本人はそれにふさわしい「栄誉ト幸福トヲ保有シ得ル権利」があるはずだと主張し「之ナクシテ名ノミ」国家の「干城ナリト欺カル」としてもそうはいかないと攻撃したのである。
そうして、この「死の叫声」が、「人間は人間らしく生きること」(小沼正)とした血盟団員や青年将校運動の草分け西田税らにつながるものであることが明らかにされていく。
「西田のそうした心情の構造は、たとえば日本アナーキズムの掉尾をかざった和田久太郎、古田大次郎らの手記にも通じるものであり、また、橘孝三郎、倉田百三、鹿子木員信ら、求道者タイプの人々の精神遍歴とも同型の意味を含んでいる。いわば、彼らの追求した自我とは何か、人間、社会、国家、世界とは何かという求道の過程が、そのままに『世界革命』のシンボルに収斂されざるをえない姿を、この(西田の)手記からもまた透視することができるのである」
ここから、「神秘的な暗殺」、「殺人は如来の方便」、「(暗殺までは)団(琢磨)が自分であり、自分が団であった」と語る日本社会の最深部に通底した血盟団員らの意識に橋川は切り込んでいったのである。
こうして、超国家主義たちの根底は「ある意味ではラジカルな個人主義の様相をさえおびている。」これを作り出したものこそ「大正期における自我の問題状況であり」、「下層中産階級のおかれた社会的緊張の状況にほかならなかった」。「日本の超国家主義というのは、そうした自我の意識がその限界を突破しようとしたとき、一般化した傾向にほかならない」という見事な定式化がなされたのであった。
そして、また、「明らかにしておきたい点は、いわゆる超国家主義が、現状のトータルな変革をめざした革命運動であった」という指摘が行われ、「ごく大雑把に図式化していえば、私は日本の超国家主義は、朝日・中岡・小沼(正)といった青年たちを原初的な形態とし、北一輝(別の意味では石原莞爾)において正統な完成形態に到達するものと考え、井上日召・橘孝三郎らはその一種中間的な形象とみなしている」とされた。
その基準は、明治的伝統的国家主義からの超越・飛翔の水準であり、伝統破壊の原動力としてのカリスマ的能力の大小とされる。
そして昭和超国家主義には「なんらかの形で、現実の国家を超越した価値を追求するという形態が含まれている」という独自の結論も導かれたのであった。
本書の著者は丸山の超国家主義についての論文を調べてみると、朝日・中岡・菱沼・小沼ら橋川が重視した超国家主義者たちは全く取り上げられておらず、石原莞爾が1回出て来るだけであったという。丸山の考察は日本社会の最深下層部まで到達していなかったのであり、そこに丸山と橋川の差があったのだった。丸山に比し、日本社会のより下層部を凝視して行った橋川が最初の柳田国男伝を書くことになるのもある意味当然のことであったと言えよう。