乃木希典 自決の背景
こうして橋川は超国家主義の再検討を通して丸山的な近代主義的研究視角をブレイクスルーしたが、その影響は大きく、これ以降の超国家主義研究は評者も含めて(『二・二六事件と青年将校』<吉川弘文館>、2014年)橋川に大きく負うことになったのであった。
このほかにも橋川の著作には魅力あふれるものが多いが、前述のように現在読みにくくなっているものも少なくない。しかし、次の2作は幸い現在入手しやすく『幕末明治人物誌』(中公文庫)に収められている。
先述の日本浪曼派について書いている頃に、執筆されたのが「乃木伝説の思想」である。明治天皇の葬儀の日に乃木希典大将は自決したが、これは明治精神史・近代日本精神史に大きな衝撃を与えた事件であった。これを契機に夏目漱石は『こころ』を書き、森鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を書いた。他にもこの出来事は芥川龍之介ら多くの人に長く影響を与え続けており、関心のある読者は拙稿「乃木希典」(拙編『明治史講義 人物篇』<ちくま新書>2018年)を参照されたい。
なぜ乃木は自決せねばならなかったのか。この問題の解決は存外に難しく、また戦後はまともに考える人もいないような状態だったのだが、橋川は果敢に挑戦し以下のような明解な回答を出したのだった。
橋川は、乃木の自決の基を、明治初頭に精神的に最も近い長州藩の人々を自ら討伐せざるを得なかったところにあると見た。戊辰戦争に尽くした長州諸隊は、維新が彼らの信じた理想と異なることへ不満を募らせ、前原一誠のもと叛乱するに至る。乃木の実弟の玉木正誼は、乃木にも参加するよう説得したが乃木は参加せず、明治政府側にそれを通報した。新政府側に立つ以上それしかなかったのだ。1876年、秋月の乱が起きると乃木は鎮圧に加わり、その後すぐに起きた萩の乱で、弟の正誼は死に、乃木の師だった玉木文之進も自刃した。乃木の苦悩・苦痛は尋常ではなかったことが推測されている。
「極限的政治状況においては、あるロヤルティを抱懐することは、状況的必然として死もしくは殺人を意味していた。観念的調整による忠誠理念の抽象的融和ということはありえなかった。したがって、あるロヤルティの維持は、そのために流された流血の全量を支えることであり、忠義であることは殺すこと、もしくは死ぬことであった」
「同志相剋の流血を合理化するいかなる理論も乃木には理解できなかった」
「乃木はそのような意識のもとにおいて、かれが死者となり、我が生者となる何らの理由も発見できなかった」「かれらがその心情のために自らその死地に入ったとすれば、乃木はまた自らのシンボルのために生命を絶つべきであった」
観念的調整による忠誠理念の抽象的融和ということがありえなかった以上、信じうる忠誠の対象はイデオロギー的国家や明治国家の制度一般ではなく、シンボルとして実存する天皇のペルソナ以外なかったのである。そのペルソナ・明治天皇の死が乃木の存在理由を解除した。これが、乃木の死に対する橋川の解であった。
乃木論は、芥川の批判と小林秀雄らの反批判などがあったが、この橋川の分析で一つの結論を得たことになったと言えよう。