普通、レストラン経営は店舗ごとの独立性が高く、料理長が大きな権力を握っているため、店舗ごとに繁閑の差があっても、なかなか人を融通できないのが一般的だったが、さまざまな経営上の工夫により、徐々にレストランごとの垣根を低くし、人の異動がスムーズになるように改善した。「地下のバーで出すフルーツパフェを2階のフレンチのシェフが作るなど、全体での協力体制が重要です」(谷社長)。そのためには会社の中で情報交流する風通しの良さが必要だというわけだ。
「社員皆で協力していこうという社風が昔からあるんです」と谷社長は言う。創業の頃から社是のひとつに「店員の福祉」を掲げてきた。戦前の飲食店ではチップ制が当たり前だったものを、生活が安定する月給制に変えたのも早かった。
また、「向上会」と呼ぶ社員の研修会を週に1回開催、社員が共に学び続けることができる場を作った。この「向上会」は49年から続き、すでに3200回を数える。さらに、62年に始まった参禅会も続く。
谷社長の父である谷善樹・3代目社長(現会長)時代は、日本人の海外旅行や出張が増えるのに合わせ、米・仏・伊・中の食文化を取り入れ、拡大一途だった。70年代には国道16号線沿線などにもレストランを出店。グループで展開するものも含めて50店近くにまで広がった。
アーリオ・オーリオ・スパゲッティ(ペペロンチーノ)やティラミスが人気を集めたのもこの頃だ。イタリアの地域で長年食べられている郷土料理こそ本物。日本が豊かになるにつれて本質的に本物が求められるようになると思い、メニューに載せたという。
アーリオ・オーリオをメニューに加えたときは、「具のないスパゲッティ」と驚かれたこともあるという。それでも徐々に広がっていった。
ビール業界で働いていた谷さんが呼び戻されて三笠会館に入社したのは2003年。外食産業が縮小に向かい始めたタイミングだった。
はじめに任された仕事が1階にあった喫茶の業態転換。イタリアの街角にあるバールを作ることにした。実際にイタリアに視察に行き、デザイナーと打ち合わせて店作りをした。三笠会館の「顔」とも言える「ラ・ヴィオラ」だ。オーク調のバーカウンターはお洒落で、ワインを傾けながら、イタリアン、伝統の鶏の唐揚げも楽しめる。ランチにはインド風チキンカレーもある。
危機の時こそ
新しい客層を取り込む挑戦
07年には東京・池袋パルコに出店した。「三笠会館をご贔屓いただいた方の高齢化が進んでいくことを考え、幅広い客層にご利用いただける場所として西武百貨店に直結するこの立地を考えたんです」(谷社長)。
4代目の社長に就任したのは、東日本大震災の翌年の12年。リーマンショックの影響も残り、厳しい経済環境の只中だった。不採算店舗を閉鎖する一方で、新しい客層を取り込むための挑戦も続ける。そんな時に新型コロナウイルスがやってきた。
「厳しい時だからこそ、将来をにらんでいろいろ挑戦していくことが大事です」。そう谷社長は唇を引き締める。
東京・二子玉川の高島屋ショッピングセンター内にオープンしたシーフードとグリルのレストラン「ザ・ギャレイ」は、開店早々、新型コロナの蔓延に遭遇した。もともと37年続けてきたカリフォルニアフレンチレストラン「ヴェルテ・スパ」があった場所で、店の老朽化が進んでいた。幅広い年齢のファミリー層を狙ったレストランだ。
売りモノが豊富なサラダバーなどビュッフェカウンターだったが、新型コロナの感染防止でビュッフェ営業が難しくなった。そこで導入したのが、タッチパネルで注文したサラダなどを運んでくるロボットの導入だった。
「実は、ロボットはいずれ導入する時が来ると考えて、米国の無人サービスレストランを視察するなど、いろいろ調べていたんです。急にロボットを導入することは賛否両論になると思っていましたが、非接触でお客様の安全を確保し、ビュッフェの楽しさを伝えるにはどうすべきかを考え、一気に導入を決めました」(谷社長)
緊急事態宣言で営業時間が制限されると、自宅で楽しめるようにレストランの食事を「冷凍」して提供するオンラインショップも始めた。今後、外食需要が戻らないことも想定し、「三笠会館」ブランドを使ったレトルト食品などにも力を入れていく。
危機をチャンスに変える経営こそ、長い歴史をつないできた三笠会館の真骨頂と言えるだろう。
写真=湯澤 毅 Takeshi Yuzawa