「暫くしてパラリンピック(シドニー大会)が開催されましたので、テレビでそのダイジェストを見て“車いすでも、こんなに上手くプレーできるのか!?”と驚きました。その時の日本代表で現在自分が所属している『NO EXCUSE』のコーチ及川晋平さんが活躍しているのを見て、とてもかっこよくて、憧れの選手になりました。これがキッカケで自分も日本代表を目指すようになったのです」
周りは大人ばかりだから、小学生の田中は可愛がられた。ただ最初のうちはシュートがゴールまで届かなかった。試合に出ることもできずに、ひたすら練習をした。それでも楽しかった。
大人に交じって試合に出たのは中学1年生になってからだ。
いじめは変わらず……
「車いすだから、小学生の頃は『ロボット』とか『犬』と呼ばれたこともありました。でも、そんなときは放っておけばいいやと思って聞き流していたんです。両親にも相談しましたが、いじめは変わりませんでした。小学生は心無い言葉が多いですからね」
田中は生まれた時から障害を持っているので、自分が『障害者』だと感じたことはなかった。歩けないことも、車いすの生活もそれが当たり前になっていた。しかし、周囲からは冷たい視線や言葉を浴びせられた経験を持っている。
たとえ障害を持っていたとしても、お互いが理解し合い、競い合い、磨き合い、楽しんでいる「ハダーズ函館WBC」は、田中にとって、自分が自分らしくいられる、唯一心許せる居場所だったのではないだろうか。
「自分が車いすバスケを始めてからは母との会話が変わりました。母親の体験談を聞いたり、バスケに関する話をしてくれたりと、自分を励ましてくれたので頑張ることができました。家庭の雰囲気がすっかりスポーツ一家のように変わって、会話もバスケのことばかり。試合には父が応援に来てくれて声援を送ってくれました」
バスケは人生の宝物
田中は車いすバスケットボールに夢中になった。転ぶことさえ快感を覚えた。怪我をしても楽しくて怖いなどと思ったことも無かった。