「自分は生まれつき二分脊椎症という障害を持っていたので、生まれた時から病院生活、車いす生活だったのですが、母がバスケットボールをやっていたので、小さい頃から二人でよくボールで遊んでいました。ある日、いつものように母と遊んでいたら病院の義肢装具士の方が、『バスケットボールをやってみないか』と声を掛けてくれて……。それがキッカケです」
入院生活が長かったため、田中と母親がボール遊びをしていた姿をよく見掛けたのだろうか。その一言が田中の人生を大きく変えたのである。
「出来る訳がない」から「できる」「やりたい!」に
車いすバスケットボールプレーヤー 田中聖一。1991年、北海道函館市に生まれる。
誘われたのは小学校4年生の時だった。それまでは母親も田中も車いすバスケットボールの存在を知らなかった。バスケ自体は母親がやっていた競技なので興味が湧いたが、その一方で「車いすでバスケットボールなんか出来る訳がない」とも思っていた。
しかし、初めて見た地元チームの「ハダーズ函館WBC」の練習に衝撃を受けた。「凄い!」田中の目に飛び込んできたものは、とても車いすとは思えないほどのスピードでプレーする選手たちの姿だった。
田中はその迫力に圧倒され、直後に魅了された。それまでの「出来る訳がない」という思い込みから「できる」「やりたい!」に気持ちが変わっていった。
その心のスイッチが新たな世界の扉を開けたのである。
「あの日が自分にとってかけがえのない競技との出合いでした」
「ハダーズ函館WBC」は、30歳から40歳代の選手たちが集まったチームだった。小学生は田中ひとり。でもさびしくはなかった。「面白そうだ」という思いが先行したことと、昔から祖父母や病院のスタッフなどと過ごす時間が長く、大人との関わりが濃かったため、何の不安もないままに車いすバスケットボールを始めた。