2024年4月21日(日)

脱「ゼロリスク信仰」へのススメ

2022年10月12日

 ところが記者はこれを逆手に取って、検出できない線量計を使ったことは『処理水の安全性を強調する「うそ」』とまで書いた。ここでも再び不可能な前提を置いて、言いがかりをつけていることになる。

説明責任は不要か?

 東京新聞は「本当に処理水への理解を得る気があるのか」題する「解説」を付記して、『現地で愚直に努力を続ける姿を見せることが、処理水への理解を得る最も近道だろう』とも書いている。筆者はこの言葉にも驚かされた。

 「視察を受け入れて安全をアピールする時間があるなら、現場の作業にもっと時間を使え」と聞こえるからだ。できれば東電もそうしたいだろう。しかし、情報開示と説明責任が重視される時代に、東電自身が説明をしないわけにはいかない。そんなことも理解していない、あるいはもっと悪くとれば、東電の口封じをしようとする態度が透けて見える「解説」である。

 私たちが何かを判断するときには、情報が必要である。例えば「処理水の安全性」についての判断は、多くの情報がなければ不可能である。そして情報の大部分をメディアに頼っている。時には判断自体をメディアの解説に委ねることもある。

 東京新聞の記事を読んで「やはり東電は信用できない」といったコメントが寄せられているというが、メディアには世論を誘導する力があるのだ。メディアの大きな役割は社会の不正を警告することだが、そのメディア自身が根拠のない「印象操作」を行ったことは、「新聞は社会の公器」という使命はどこへ行ったのか、首を傾げざるを得ない。

   
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