日本と韓国の歴史学の違い
日露戦争(1904年~5年)前後から日本は本格的に韓国保護国化を企て、第2次日韓協約(05年11月)によって外交権を掌握、英・米に韓国の保護国化を承認させた。
「このすぐ後、日本は韓国統監府を設置して内政も支配し伊藤博文が初代統監になるわけですが、韓国が主権国家でなくなった第2次協定にも伊藤が登場しますね。特派大使として高宗や大臣らに会い、その際に脅迫や迫害があった。だから協約や保護国化は不法、というのが現在の韓国側の主張ですね?」
「そうです。不法であり無効だ、と」
「だから〝極悪人〟伊藤は韓国で憎まれ、1909年10月に伊藤がハルビンで暗殺されると犯人の安重根が〝英雄〟になる。でも伊藤は本当に韓国併合を望んでいたんでしょうか?」
近年、伊藤に関する新しい史料も現れた。
「伊藤は自由主義的な政治志向だったと思います。完全に併合して植民地化すると、日本に膨大な財政負担がかかってしまう。それは避けたい。保護国として、韓国人自身が進んで近代化に協力してくれるのがいい、そう考えていたのでは。近年、進展している伊藤博文に関する日本史研究を見ると、『併合のブレーキ役』としての伊藤の像が浮かび上がってきます」
ところが伊藤の辞任後、抗日の義兵運動の盛り上がりや統監政治の行き詰まりにより、日本は一挙に韓国併合へと動く。韓国併合条約締結は1910年8月だった。
終章では、韓国併合に至るまで日本と韓国の間で結んだ5つの条約・取り決めについての、日韓双方の最新の見解が並べてある。
「これを読むと、両国の歴史認識の違いがいかに大きいかわかりますね?」
「日本の歴史は史料に基づいた史料第一の実証史学ですが、韓国は違います。民族史学が優勢です。今の韓国にメリット、だからこう考える。歴史教育は、そんなナショナリズム涵養の領域なんです」
史料の相互検証ができないことも問題だという。日本には膨大な公文書や日記があるが、韓国側にはほとんどない。国王が「上疏」(下からの助言)を受け、何度も断わった末に決断する、という旧来の政策決定方法なのだ。
「歴史論議はどこまでも平行線?」
「平行線というより対話自体が困難です。けれど少なくとも本書のような経過があったことは、日本の人たちに知っておいてほしいです」
現在、森さんの下には韓国での翻訳・出版の話が来ているとのこと。順調にいけば来年(2023年)になる予定だ。
「嬉しいですが、ちょっと恐い(笑)」