トルコ系イスラム国家であるオスマン帝国は1299年頃に創建され1922年まで続いた。日本なら鎌倉時代から大正時代である。そのうち、スルタン(君主)がイスタンブールのトプカプ宮殿に居住したのは、15世紀半ばから19世紀前半までの約400年間。
『ハレム 女官と宦官たちの世界』(小笠原弘幸、新潮選書)は近年のトルコでの最新史料研究を踏まえ、トプカプ時代を支えたハレム(王室の後宮)の実相に初めて迫った意欲作だ。
「現在博物館になっているトプカプ宮殿は、私も以前、観光で訪れたことがありますが、ハレムは小部屋がやたら多く、無秩序な迷宮の印象しか残りませんでした」
私が言うと、著者の小笠原さんは笑った。
「私も第一印象はそうでした。トプカプ宮殿は、図書館があるため留学中に100回以上行きましたが、25年前に修士課程の時はじめてハレムを訪れた印象は、よく分からないな、というものでした。実態は、きわめて機能的な組織なんですけどね」
トプカプ宮殿のハレムは、最終的には400以上の小部屋により成り立っていた。
南が正門の宮殿は外廷・内廷・ハレムの3区域で形成。ハレムの区域も、南から使用人の区画、母后の区画、スルタンの区画と3つの区画に分かれていた。
「使用人の区画が女官たちや彼女らを管理する黒人宦官の小部屋、中央が母后の間、そして一番奥が、スルタンと夫人・愛妾たちや王位継承者らが暮らすスルタンの区画ですね?」
「ええ。宇宙の中の小宇宙のような入れ子構造ですね。王位継承者を効率よく育成するための合理的な区分です。ですからハレムは、同時代の西欧人が夢想していたような酒池肉林の空間ではありませんでした」
ハレムに対する偏見や憧れが拡散
冒頭に、19世紀のフランス人画家アングルによる裸体の女官の図〈奴隷のいるオダリスク〉が掲載され、帯にもアングルの裸体女性の群像図〈トルコ風呂〉が掲げてある。
「アングルなどの著名画家たちは実際にハレムを見ていません。絵の注文主のハレムに対する偏見や憧れを忖度して描き、そのイメージが欧州社会に拡散したわけです」
小笠原さんは、一夫一婦制の欧州キリスト教社会には、夫が4人まで妻を持てるイスラム世界に対して、潜在的に性的「放埒」の意識があったのでは、と推測する。
「中には乱痴気騒ぎを好むスルタンもいたでしょうが、それはごく少数。ハレムの基本は君主の家族を中心とした特異な官僚組織です」
特異性の根底は、スルタンの母親も妻妾も、世話をする女官や宦官も奴隷出身だということ。「奴隷制がオスマン帝国の原動力」という一文が本書の中にある。
「夫人・寵姫や使用人を非イスラム教徒の奴隷から選んだのは、彼らの方がスルタンに忠実で、余計な後継者争いを招かないからですか?」
「そうですね。イスラム法では、イスラム教徒を奴隷にできない。だから、帝国外の非イスラム教徒から奴隷を選別して側に置きました。それに、奴隷の産んだ子でも主人が認知さえすれば正式な後継者かつ自由人になれます。これもイスラム法で定められています」