幕末を描いた歴史書は数多くある。けれど、『幕末社会』(須田努、岩波新書)が注視するのは、中央政局で活躍する雄藩領主や著名な志士たちではない。教科書ではほとんど触れられてこなかった在地社会の様相、時代感覚を、そこに生きた民衆の視点から取り上げる。特に、封建社会を内側から揺るがす要因となったさまざまな社会的ネットワークや個人の動向である。
「日本近世・近代史の中でも民衆史が専門ということですが、なぜ民衆史を?」
「時代時代において名もない人々が何を思い、行動したか、民衆の心性に関心があるんですね。それを歴史的に位置付けたい、と」
本書で言えば、百姓一揆の変容がある。従来なら、「恐れながら」と在地の窮状を訴える訴願が大半だったが、天保7年(1836)の甲州騒動では、悪党(無宿の若者)らが略奪や放火を繰り返し、武力で鎮圧された。同様な武器携行の一揆はこれ以降増加する。
幕末の忠治親分
天保期(1830~43)に至り、それまで幕藩体制を支えてきた領主や武士の「仁政」と「武威」が、随所で綻び始めたのだ。
「幕末史の中に国定忠治が登場したのには驚きました。群馬県高崎市出身の須田さんは幼い頃から“忠治親分”の話を聞いたそうですが、飯岡助五郎や笹川繁蔵など関東に多くの博徒が出現したのも、封建秩序の動揺?」
「ええ。忠治は天保飢饉の時に私財を投げ打って貧民救済したという言い伝えがあります。本来なら領主が対策を取るべきですが、すでに財力も指導力もなかったんですね」
関東の場合、領地が中小の譜代藩領や旗本・寺社領などに細分化され入り組んでおり、権力の集中がなかったことも、西日本より関東に多くの博徒が跋扈(ばっこ)した理由だった。
「本書では、時代変革のエネルギーを若者の暴力に見ています。身分制社会の中で、現状打破と自己実現のために若者が暴力を用いた。博徒の暴力ネットワークもその一つ?」
「そうですが、博徒たちの影響力は短期間です。なぜなら、嘉永6年(1853)のペリー来航以降は、多かれ少なかれ尊王攘夷運動と結びつく暴力がさまざまな社会的ネットワークの主流となるからです」
藩校、剣術、蘭学のネットワーク
ネットワークには、国体・尊王攘夷論の牙城である水戸藩が民衆統合を図って幕末に急増させた藩校ネットワーク、各藩の尊攘派藩士の江戸における拠点となった北辰一刀流・千葉周作の玄武館など剣術ネットワーク、長崎・医学伝習所の松本良順や大坂・適塾の緒方洪庵などと幕府役人・豪商を結びつけた蘭学ネットワーク、そして平田篤胤(あつたね)の説いた尊王論による国学ネットワークは、各地の豪農や村役人たちに、弱い領主に頼らずとも安寧な生活を可能にする指針を教示した。
もっとも、剣術ネットワークと言っても、神道無念流のツテで水戸に滞在した吉田松陰は、水戸攘夷派の熱量をそのまま故郷に持ち帰り長州藩を攘夷派の急先鋒へと導くが、多摩の農村では天然理心流を学んだ近藤勇や佐藤彦五郎らが公武合体の佐幕派側に付く。
「地域ごとに、置かれた状況や抱える課題が違います。若者たちは、それぞれの矛盾を解決するために暴力に頼ろうとした。だから政治的に正反対の方向もあり得ました」
「でも、蘭学ネットワークの関係者の多くは若くても暴力に依存していませんよね?」
「彼らは学者であり知識人です。学問の道を選ぶことができる若者はごく少数、狭い道でした」
須田さんによれば、特別の能力も資格もない大多数の若者にとって、現状打破の一番手軽な方法が暴力に訴えることだった。
在地の祭礼や相撲の興行を支配したり、一揆や打ち壊しに便乗したり、尊王攘夷運動に積極的に参加して、暴力を爆発させた。
「ただし、暴力に訴えると、暴力が返ってきます。暴力により若くして命を失った者が大勢います」