軍人の昇進停滞も深刻な問題となっていた。軍隊組織は典型的なピラミッド構造になっており、下位階級では膨大な人数を必要とするが、上位に進むほど急激にポストは少なくなる。そのため必然的に人事の停滞が起こりやすい宿命を負っていたが、明治期の大量採用のツケが回り、平和な「大正デモクラシー」期には深刻な昇進停滞が起っていた。
後に革新派青年将校として名を馳せる満井佐吉はある上官の愚痴を記録している。「おれの中学の同級生は今度二人程勅任の知事になつた。も一人××省に居る男は今××課長であるが局長を兼ねて居る。おれは(中略)何時中佐になれるのかまだ見込が立たない」。
そして昇進停滞に慢性的な予算不足と物価上昇が合わさった結果、軍人は生活苦にも陥っていく。
明治建軍以来、近代日本の発展は軍隊と共にあった。多くの軍人(将校)は厳しい受験競争を突破し、10代の頃から社会的エリートとしての自尊心を叩きこまれてきた。それが突然に自己認識と世間の評価との乖離を突き付けられたのである。
後に昭和陸軍を代表する政治将校となる武藤章は、当時を回想して「鋭敏な神経をもつ青年将校で、煩悶せぬのはどうかしている」と述懐している。「大正デモクラシー」期、軍人は深刻なアイデンティティ・クライシス(自己喪失)に陥っていくことになるのである。
一部では敬礼も廃止 日本陸軍が挑んだ自己変革
こうした状況に陸軍も手をこまねいていたわけではない。政治方面では宇垣一成陸相が中心となり、政党政治を所与の前提として自己抑制による利益確保を目指す「政軍協調路線」が展開されることになる。宇垣は政党の要求に応えて4個師団を削減し、見返りとして捻出予算を近代化に転用する「宇垣軍縮」を実行した(連載第3回『旧日本陸軍「変貌」の転換点となった「近代化の挫折」』参照)。
宇垣の先輩であり、かつては政党政治との対決路線を主導した田中義一も(連載第2回『悪名高き「統帥権独立」とは何だったのか 対立深まる軍と政党』参照)、予備役編入後は政友会総裁に就任して二大政党制の一翼を担うことになった。陸軍は新しい政治情勢に順応すべくもがいていた。
陸軍部内でも改革の動きが起る。軍人の社会的常識の欠如、民主主義に対する皮相的認識、人権意識の不足などが自己批判の対象となった。全陸軍将校が加盟する親睦団体「偕行社」の機関誌『偕行社記事』上では、改革の是非をめぐる活発な議論が展開された。
軍事以外の知識を涵養する必要から、選抜された将校を帝国大学に派遣して一般学生と同一の教育を受けさせる陸軍派遣学生(員外学生)制度も実施された。この制度自体は技術系教育のために以前から存在していたが、経済・法律・教育などの文科系分野にも拡充されるようになる。
将校の中には社会思想の勉強に励むものも現れる。たとえば後に企画院総裁となる鈴木貞一は、大蔵省や日本銀行に派遣されて金融経済を学んだが、個人的にもマルクス主義経済学者の河上肇が主幹する雑誌『社会問題研究』を愛読していたという。鈴木ほどのエリートではない一般の部隊勤務将校の中にもマルクス主義などの新思想を自主学習する者がいた。なかには度が過ぎて軍隊を辞め、労働運動や共産活動に乗り出す者さえ現れる。
軍隊内の権威主義的体質の見直しも行われた。兵士に対して敬語で命令する将校や、部隊内での敬礼を廃止する将校も一部に現れる。さすがにこの様な事例は特殊なものだったようだが、兵営生活の文化的改良は広く試みられた。野球やテニスといった近代スポーツも奨励された。士官学校では学生に民主主義に関する講演を聞かせた。外出制限は緩和され、課外時間には和服で寛ぐことも許されるようになる。