2024年12月21日(土)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年2月16日

理解されなかった自己変革努力

 こうした陸軍の自己変革努力に国民世論は応えたのであろうか。当時は全国的な世論調査のようなものは存在しないから、厳密な検証は難しい。

 一つの指標として軍学校の志願者の増減から推測する方法がある。たとえば陸軍士官学校・陸軍幼年学校の志願者の増減を見ると、第一次世界大戦後から急速に下落した志願者数は1920年代前半に最下限を迎える。ところが1920年代後半からは徐々に増加に転じる。では、これを陸軍による自己変革の努力が国民の理解を得たことによる変化と解釈することは可能だろうか。

 しかし同時期は関東大震災(1923年)に端を発した震災恐慌、金融恐慌(1927年)、昭和恐慌(1930年)と続く景気の長期低迷期であり、結果として学費のかからない士官学校の志望者を増加させた可能性が高い(幼年学校は原則として学費がかかるが、士官学校への進学が保証されていることがインセンティブになった可能性がある)。つまり1920年代後半の志願者増は、かなりの程度が経済的背景によって説明し得る。

 実際、軍学校志願者の社会階層を調査した広田照幸氏(日本大学教授)の研究によれば、1910~20年代になると都市部の学力と財産を併せ持ったエリート学生は第一高等学校(現在の東京大学教養学部などの前身)などの旧制高校を志願する傾向が顕著であり、軍学校は「百姓と貧乏人」の進学先と見なされるようになった。

 また評論家の山本七平の経験によると、1920年代後半(昭和初め)の東京では軍人を侮蔑する雰囲気が強く、軍人の側でも外出時は背広を着たり、電車でも着座しないなど遠慮がちだったという。

 長期の景気低迷により、相対的な低所得層を中心として陸軍の復権が(主に経済的観点から)進んでいたことは事実である。しかし一方で、陸軍の自己変革努力にもかかわらず、少なくともエリート層や都市部においては軍人の社会的地位はほとんど改善していなかったというべきだろう。

 他方、世間に対して遠慮がちな軍人の側でも、軍人蔑視の風潮を受け入れたわけではなかった。軍人は一般社会のことを「地方」と蔑み、背広のことを「商人服」と蔑称した。一般に、人は自らの努力が正当に認められないときに強い徒労感と反発を感じるだろう。軍人は世間の蔑みのなかで「地方」や「商人服」に対するルサンチマンを沈殿させていくのである。

 各種軍学校における教育にも「大正デモクラシー」に対する反発が現れるようになる。幼年学校・士官学校における「自由主義教育」は大正後期(1920~25年頃)がピークであった。昭和に入ると反動から教育方針は剛健さを重んじたものへと回帰していく。高嶋航氏(京都大学准教授)の研究によれば、軍隊内のスポーツ奨励の空気も昭和に入ると急速に減退する。スポーツ独自の価値体系(娯楽性、競技性、都市的近代性など)の過剰流入が忌避されるようになったことが理由らしい。

 こうした反動の背景には、後述するような極東情勢の緊迫化の影響も指摘できるだろう。特に1926年に始まった中国国民党の蔣介石による北伐(中国統一を目指した軍事作戦)が軍隊内教育に及ぼした影響は大きかった。平和が揺らぎ有事が近づけば、軍隊内教育も即応性を求められ、迂遠な理想主義は後退する。

 また同時に、もともと陸軍の「大正デモクラシー」認識そのものにもある種のアンビバレンス(相反する感情を同時に持つこと)が存在したことも確かだろう。「大正デモクラシー」への順応努力は、それだけ「大正デモクラシー」への脅威認識が大きかったことを意味する。両者は表裏一体の関係にあったのである。


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