2024年12月21日(土)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年2月16日

「大正デモクラシー」を経たからこそ軍人は社会改革を志した

 ほころびは政党との関係にも生じた。発端は軍縮政策(近代化政策)の行き詰まりであった。4個師団を削減して政党の軍縮要求に応えると共に、節減予算を転用することで近代化を実現しようとした宇垣軍縮であったが、工業生産力の低い日本においては期待通りの近代化は実現できなかった。近代化の挫折は精神主義への傾斜を招き、同時に自己抑制によって利益を獲得しようとする「政軍協調路線」に対する失望も広がっていく(連載第三回参照)。

 政党の統治能力に対する幻滅も生まれてくる。「大正デモクラシー」は政治腐敗の時代でもあった。男子普通選挙の導入によって政治参加の裾野は大きく広がったが、同時に政治には莫大な金銭が必要となり、金権政治が蔓延する。政治の大衆化は、真面目な政策論争よりも、煽情的な政治スキャンダルの暴露による非建設的な政治対立を引き起こす。

 経済的にも「大正デモクラシー」期は不安定な時代であった。大戦景気により国民の生活水準が上昇した面がある一方で、不況が繰り返されて経済は安定しなかった。経済的な不安定さは体力のある財閥による寡占体制を導いた。他方で、都市化や工業化によって農村から都市部に流入した人口は非熟練労働者となり低賃金に甘んじた。こうして著しい富の不均衡が生み出され固定化される。

 こうした状況に政党は適切に対応することができなかった。金権政治は政党と財閥の癒着を生み、政策は財閥の利益に沿ったものとなった(そのように一部の国民から見なされた)。

 1930年、濱口雄幸内閣(民政党)が国際競争力強化と経済合理化のために金解禁を強行すると、折からの世界恐慌とも相まって、前例を見ない大不況が日本を襲うことになる(昭和恐慌)。特に農村部が受けた打撃は深刻であり、農家の平均所得は1929年から31年までの2年間で半分以下に落ち込んだ。

 こうした事態に危機感を高めたのが陸軍であった。陸軍は徴兵制度によって一般社会と密接なつながりがあり、特に農村は優秀な兵士の供給元として重要視されていた。将校と下士官兵の結び付きも濃密であった。戦争になればかなりの高官になっても戦場で風雨に晒されながら兵士と寝食を共にする。

 この点で志願兵を主体とし、士官と下士官兵の断絶が大きい海軍とは質的な違いがあった。もともと陸軍には政治学者の丸山眞男のいう「擬似デモクラシー」的性格があり、一般社会の窮状に危機感を感じやすい土壌があった。まして総力戦の時代にあっては、経済的・社会的停滞は直接的に国防力の停滞に結びつく。

 そして「大正デモクラシー」期の自己変革努力で培った政治・経済・社会などへの広範な関心や学習が、こうした傾向に拍車をかけたであろうことは想像に難くない。「大正デモクラシー」の洗礼を受けた陸軍軍人が、社会改革への欲求を高めていったことはむしろ自然なことであった。

 政党政治への失望は、陸軍部内での世代間断絶も生み出した。陸軍上層部が推進した「政軍協調路線」は、中堅・若手将校からは腐敗した政党勢力への唾棄すべき媚態だと見なされるようになる。

 田中義一が政友会入党に際して持参したという出所不明の大金は、陸軍機密費流用疑惑として世間に流布され、多くの陸軍軍人に嫌悪を催させた。

 宇垣一成の推進した軍縮政策は、政界進出の野心のために陸軍を踏み台にしたものとして非難され、宇垣自ら弁明することを余儀なくされた。こうして軍上層部の威信は失われ、上下の統制は徐々に蝕まれていく。


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