日露戦争勝利の要因は様々であるが、その第一の功労者はもちろん軍隊であった。軍隊の威信の高まりは、戦争後の軍学校への志願者増として端的に表れている。後述する日比谷焼き討ち事件でも、政府機関・警察施設が暴徒の標的となったのとは対照的に、軍隊や軍事施設は攻撃対象とはならなかった。その威信を背景に、やがて彼らは単なる軍事プロパーに止まらない政治アクターとして登場することになる。
日露戦争は大衆の社会的・政治的地位も一変させた。従来、政治において大衆は客体的存在に過ぎなかった。大衆の政治運動がなかったわけではないが、多くの場合、それは減税や徳政を求める一揆・強訴・打ち壊しの類であった。
しかし、ポーツマス講和条約の内容が明らかになると、大衆は講和条約破棄と戦争継続を求めて声を上げ、一部は直接的な示威行動に乗り出した(日比谷焼き討ち事件)。それは大衆が外交や戦争といったハイ・ポリティクスに関心を持ち、政治的に主体化した瞬間だった。以後の政治は、大衆という新たな政治要素を無視しては運営しえなくなった。
大衆の政治力は、必然的に、それに支えられた政党の政治力も伸長させた。当時、最大の政党勢力は立憲政友会である。政友会は反藩閥政府運動たる自由民権運動に源流を持つ政党だったが、日露戦争中は藩閥・官僚系の政権(第一次桂太郎内閣)との政治論争を凍結し、戦争遂行に協力した。戦争終結後は、世論には同調せず講和支持の姿勢を貫いた。こうして政友会は穏健な責任政党として政権担当能力を誇示した。
第一次桂内閣の総辞職後は、政友会総裁西園寺公望が政権の禅譲を受け、いわゆる桂園時代が開始される。西園寺内閣は官僚系大臣を多く抱え、未だ純粋な政党内閣とは言い難い面もあった。それでも政党党首が組閣することが一般的現象になりつつあったことは大きな変化であった。
軍部や政党の伸長とは対照的に、近代国家建設を担ってきた元勲政治家は徐々に退場のときを迎えていた。第一次桂内閣は組閣当初、その閣僚の小粒さから「次官内閣」と揶揄されたが、戦争の勝利によって桂の政治的権威は高まっていくことになる。他方で、元勲政治家は老い、二大巨頭であった伊藤博文はテロに倒れ、山県有朋の威光も徐々にくすみだす。明治国家を支えた権威者が退場しつつあったことは、その後の政治力学に大きな変動を引き起こすことになる。