2024年5月5日(日)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2022年12月20日

陸軍による西園寺内閣の「謀殺」?

 政治威信を急速に増した政党と軍部は間もなく直接対決の機会を迎えることになる。発端は軍拡をめぐる争いだった。日露戦争後の1907年、軍部は長期的な国家安全保障戦略として『帝国国防方針』を策定した。同方針は陸軍の所要兵力として平時25個師団の整備を定めていた。それは現有兵力17個師団をほぼ1.5倍する極めて野心的計画であったが、政府(大蔵省)を排除して策定したため、財政的目途は全く立っていなかった(連載第1回『明治版「防衛3文書」から見る日本人の〝精神主義〟』参照)。その後、陸軍は2個師団分の増設予算が認められ、とりあえず平時19個師団が実現することになるが、それ以外の師団増設は全く暗礁に乗り上げてしまう。

 1912年、第二次西園寺内閣の陸軍大臣である上原勇作は、さらに2個師団を増設して平時21個師団とするための予算配分を要求した。陸軍側でも財政の困難は承知しており、陸軍案は部内の行政整理などで費用を捻出し、国庫負担をできる限り減らそうとするものであった。しかし、西園寺は陸軍の要求を拒絶する。政権運営上、西園寺は海軍との関係を重視し、海軍拡張を優先するつもりであった。

 この西園寺の方針に陸軍は態度を硬化した。『国防方針』の所要兵力は西園寺(第一次内閣時)も確認し、天皇の裁可を受けた国家の根本方針ではないか、財政との斟酌を求める首相の要望は理解するが(連載第1回参照)、だからこそ陸軍はすでに努力を払っている、なのになぜ海軍を優先し陸軍が割を食うのかと。

 内閣と陸軍の対立が鮮明化するなか、元老で陸軍長老の山県有朋が両者の調停に乗り出した。山県は西園寺に対して、陸軍側の面子を立てるため一定の予算的配慮を求めた。しかし、西園寺が妥協に応ずることはなかった。山県や上原は、西園寺が最終的には譲歩するものと認識していたらしいが、西園寺の態度は強硬であった。

 他方、陸軍側も頑なだった。東京大学名誉教授の北岡伸一氏によれば、陸軍では、この問題を「政党政治と官僚政治との体制的正当性をめぐる争い」と認識するようになっていたという。両者の対立は、師団増設の是非をめぐる単なる政策的対立から、政治的ヘゲモニーの推移を占うものに発展していた。

 実際、陸軍軍人の一部には次期政権の構想を練る者も現れる。陸軍省軍務局長の田中義一は、西園寺内閣を瓦解させ、寺内正毅(陸軍大将)に組閣させることを計画していたという。こうなると妥協は困難である。後に引けなくなった上原は単独辞表を奉呈した。西園寺は山県に後任陸相の推薦を求めるが、山県は陸軍との妥協を勧告して後任推薦に難色を示した。陸相を得られなかった西園寺は憤然として総辞職を決行する(12月5日)。

 一連の顛末は日露戦争後の政界の様相を鏡のように映し出している。第一には、政党と軍部の政治的台頭である。両者は師団増設をめぐって衝突するが、それは単なる政策問題を超えて、両雄の政治的ヘゲモニーをめぐる争いに発展する。第二には、元老の政治威信の低下である。山県は政党内閣と陸軍の調停に失敗した。それは結果として元老の政治力の減退を(実態はともあれ)印象付けるものになるだろう。


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