2024年5月6日(月)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2022年12月20日

 さて、かくして西園寺内閣は総辞職した。外形的には陸軍が「謀殺」した格好だが、陸軍としては引くに引けなくなった挙句に「謀殺」決行に追い込まれたものであり、当初から西園寺内閣の破壊を目指していたわけではなかった。その意味では、総辞職は陸軍にとって敗北だったが、事態はさらに悲惨な方向に流れていくことになる。

強力なアクターとなる「大衆世論」

 西園寺内閣の総辞職を受け、12月6日、後継首相選定のための元老会議が開催された。その結果、会議は西園寺の留任を勧告することに決し、山県自らが西園寺の説得に当たった。しかし、西園寺は山県の再三の慰留にも辞意を翻さなかった。やむなく元老会議では松方正義や山本権兵衛などに交渉を試みるが、ことごとく辞退されてしまう。この困難な政治情勢下での組閣を誰もが躊躇していた。田中義一が構想していた寺内正毅の名前も候補者として上がるが、今度は山県が寺内の推薦に二の足を踏む。山県は世論の批判を気にしていたらしい。

 この頃、西園寺内閣の瓦解を陸軍の計画的陰謀であるとし、その黒幕として山県を非議する論調が新聞・雑誌を中心に激しさを増していた。世論の反発に直面し、山県は子飼いの寺内に傷を付けることを恐れたのである。

 結局、元老会議は17日まで実に10回開催の迷走を続け、ようやく桂太郎(内大臣兼侍従長)を後継首相として推薦することを決した。言うまでもなく、桂は長州出身の陸軍大将であり、かつては山県の後継者と目されていた。しかし、この人事は山県にとって諸手を挙げて喜べるものではなかったろう。すでに二度の内閣首班を経験して政治家としての自信を深めた桂は、山県からの独立志向を示し、両者の関係性は冷却化していたからである。

 第三次桂内閣の性格はその閣僚人選と政策構想に端的に表れている。第三次桂内閣の閣僚は山県系の官僚を極力排除して桂系の官僚で固められた。政策面についても、桂は師団増設には極めて消極的であった。またどの程度の熱意があったか不明確だが、軍部大臣現役武官制(後述)の改正も検討していたらしい。すでに桂は山県の代理でも陸軍の利益代表でもなくなっていたのである。

 政党政治に対する態度でも桂は変節していた。桂園時代は西園寺政友会との「情意投合」として知られているが、桂からすれば、それは議会運営のために政友会へ配慮を強いられることを意味した。他方、政友会内部でも「情意投合」路線をめぐって意見の相違があり、桂と政友会の協力関係は実は不安定なものであった。かかる状況下で、桂が自身の政策を思い通りに実行するにはいかなる方法があるか。桂の辿り着いた結論が新党結成だった。1913年1月20日、桂は新聞記者を招き新党樹立計画を公表した。


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