2024年5月6日(月)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2022年12月20日

 しかし、桂の新党計画に対して世論は冷淡だった。すでに世論は、一連の政変を「桂内閣樹立を企む山県と陸軍の計画的陰謀」という図式で理解しており、新党計画を政権延命の糊塗策程度にしか評価しなかった。

 実際、新党結成を目指しながら、当の桂に政党政治の根幹をなす「世論政治」というものにどの程度の理解があったかは疑わしい。第三次桂内閣は緊迫化する政局を突破する為に天皇の権威に頼り、詔勅を乱用した。このことは既存政党や世論のさらなる反発を招いた。

 大衆は桂内閣打倒を叫んで議会を包囲し、一部は暴徒化する。議会では政友会と犬養毅率いる立憲国民党が内閣不信任決議案を提案した。2月11日、万策尽きた桂は内閣総辞職の辞表を奉呈する。大正政変である。

 大正政変は事後の政界勢力図を暗示する。藩閥勢力や官僚勢力は桂という最大の後継者に離反され、国民世論の嫌悪を受け、その影響力を失っていった。政党勢力は桂内閣を総辞職に追い込み、なによりその桂自身が政党政治に自身の政治生命を掛けたことからも分かるように、改めてその政治力を誇示した。桂は総辞職後まもなく病に斃れるが、皮肉なことに「桂新党」は立憲同志会→憲政会→立憲民政党と発展して二大政党制の一翼を担うことになる。

 そして政党の政治力を支えたのが大衆世論であった。世論は第二次西園寺内閣瓦解の「首謀者」桂内閣を覆すほどの威力を誇示した。以後、大衆は強力で、しかし誤解しやすく移り気な政治アクターとして日本政治を動かしていく。

 桂を血祭りにあげた政党と大衆世論の次の標的は、西園寺内閣瓦解の「実行犯」陸軍であった。

軍部大臣現役武官制の改正へ

 第三次桂内閣瓦解の後、山本権兵衛が内閣を組織した。山本は薩摩出身の海軍大将であったが、その大命降下に際しては西園寺の推挙があり、組閣には政友会が準与党として協力した。その意味で、同内閣は明らかに「反陸軍」「反長州」「反山県」の傾向を帯びていた。したがって同内閣は師団増設には否定的であり、さらに軍部の既得権益であり、政党勢力がその撤廃を強く求めていた「軍部大臣現役武官制」の改正に取り組むことになる。

 軍部大臣現役武官制とは、陸海軍大臣は現役の大・中将でなくてはならないとする規定であり、統帥権独立を制度的に支えていた。統帥権独立とは大日本帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」に由来する制度ないし概念である。これによって軍隊の作戦用兵は天皇に直結し、内閣や議会は関与できなかった。現在の政治常識では不可解な、このような制度・概念が形成された理由は、政治と軍事を一元的に管理する政治権力が出現することは「幕府」の再来であり、天皇の国家統治の大権を犯すものと観念されたからである。

 そのため戦前の日本では、軍隊の作戦用兵(軍令)を掌る参謀本部(海軍は軍令部)は内閣から独立し、参謀総長(軍令部長)が天皇の大権行使を輔弼(補佐)していた。ただし軍隊という組織は作戦用兵だけで成り立っているわけではない。軍隊は巨大な官僚機構であり、その機構を維持・運用するためには行政的な業務(軍政)が不可欠である。こちらの業務は予算などの他の国家行政とも密接に関係するため、それらを所管する陸軍大臣(海軍大臣)は内閣の一員であった。


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