2024年12月2日(月)

Wedge REPORT

2023年2月20日

 ただ、ベッドの父が時々片手をあげて「口に水分を含ませて」「痰を取って」などとジェスチャーするのに応じながら普通に暮していると、父の状態を世間に隠すこともないんじゃないかと思えてきたのである。沈痛な表情の家族がチーンと座っているより、日常生活のように楽しいことや笑える状況がまわりにある方が自然だし、父もくつろげるのではないか、と。

 実際、彼は亡くなる前日までわずかな首振りの動作で意思を示し続け、とても淡々としていた。孫たちのことは「分かる?」と聞くとウンと首を縦に振り、筆者の夫のことは「分かる?」と聞くとイイエと首を横に振る。それでみんなが大爆笑する一幕があったのも亡くなる前日だ。

 母だけは夫の衰える姿に怯え、「あの人もう意識不明よ」「ファイナルコースに入ったわね」などとびっくり発言を飛ばして家族をざわつかせていたが、それものちにわが家の名言集になっていった。

 死にまつわる時間は愉快さやドタバタを排除せず、悲しみとも、日常とも共存できる。昨日生きていた父が今日は亡くなっているという連続を体験し、わたしたち家族にとって父は悲しむ対象ではなく、これまでと変わらない父として残り続けることになった。

命の輪郭を知ること

 近代以降の社会は、日常生活から死を遠ざけて「生きて成長し続ける」部分だけに光を当ててきた。その効果でわたしたちは死に対してはとてもウブなまま生き続け、続けて老いも受け入れ難くなり、〝人生は上り坂一択〟という見せかけを信じるフリをすることになった。

 それは果たして、生きているわたしたちを幸せにするだろうか。

 父の看取りを経験して感じたのは、事実を知ることの尊さだった。命が終わる瞬間まで一緒にいられたことで、筆者は父を細やかに観察できた。

 概念としての「死」ではなく「人生は必ず終わる」という事実に至る一部始終を知ったことで、父の命の輪郭が把握できた。このことが、生き残った者たちを楽にしたように思う。

 命の輪郭が見えたことで、生きるのが楽になるのはなぜか。

 それは、たとえば「失敗したら人生終了」といった〝自分でつくる輪郭〟が無用になるからだと思う。命の輪郭の中だったら何度だってやり直せるし、そもそも命は尽きるものだと思えていれば、過度に追い詰められたり失敗を怖がるのは意味がないことが感覚的に分かるようになる。死ぬことが分かると、生きることを怖がらなくなるのだ。

 永遠に続くかのように思える子育てにも終わりがあるように、命にも終わりがある。だからこそ、人は「今こそは」と力が出せる。看取られて死にゆく者は、看取る者にそうした力を与える役割を果たしているのではないか。

 「多死社会」となる日本で在宅看取りが増える時、わたしたちは生き物として知るべき事実を知り、成長し続けねばならないという呪縛から自然と脱出できるかもしれない。

 
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 「人が死ぬ話をするなんて、縁起でもない」はたして、本当にそうだろうか。死は日常だ。その時期は神仏のみぞ知るが、いつか必ず誰にでも訪れる。そして、超高齢化の先に待ち受けるのは“多死”という現実だ。日本社会の成熟とともに少子化や孤独化が広がり、葬儀・墓といった「家族」を基盤とするこれまでの葬送慣習も限界を迎えつつある。そのような時代の転換点で、〝死〟をタブー視せず、向き合い、共に生きる。その日常の先にこそ、新たな可能性が見えてくるはずだ。
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