昨年9月に厚生労働省が公表した「人口動態統計」によると、2021年に自宅で亡くなった人の割合は17.2%だったそうだ。新型コロナウイルス禍の影響と「最後は家で過ごしたい」という希望する人が増えたことで、近年在宅での死亡率は増加傾向にあるという。
筆者の父は2021年末に自宅にて亡くなったので、この17.2%の中に入っている。大動脈解離で緊急入院し、患部は回復したものの2カ月の入院でモノが食べられなくなった。そして退院から死亡日までの17日間、家族とともに最後の時を過ごした。
退院時には「家ならまた食べられるようになるかも!」と家族は体調回復を信じ、生きるための退院だと認識していたが、その後父の状態を見続けていくうちに「これは看取りなんだ」と気付く。あれから1年経ち、看取りの経験は父の最期のプレゼントだったと感じている。
現代社会では、暮らしの中で人の死を目の当たりにすることがほとんどなかった。それはわたしたちにどんな影響をもたらしていたのだろう。そして今後確実に多死社会となる日本で、近しい人たちを看取る機会が増えた時、どんな変化が生まれるだろう。
たったひとつの例ではあるが、筆者の経験を通じて考えてみたい。
延命のために手を尽くさない、という判断
父は、家に戻っても食欲が戻ることはなかった。
病院の先生は退院前に「馬場さん何が食べたい? と聞いたら『天ぷら、お寿司、ステーキ』って。美味しいものがお好きなんですね」と教えてくれていた。父らしいねと笑いつつ、家族は張り切った。柔らかく煮込んだ肉、旨味のあるスープ。ちょっとずつ口に含ませてみるのだが、1口飲み込むのも難しい。
ほどなく、訪問医から「胃瘻(ろう)についての方針を決める必要がある」と伝えられた。
この状況で家族の意見は割れた。筆者は、食べられない状態になった身体に延命措置をしたとしても本人の幸福にはつながらないのではないか、という思いが根本にあった。一方、「可能性が残っているならやった方がいいのでは」という姿勢でネット検索すれば、胃瘻で生き延びた例もたくさん見つかる。もっと生きていて欲しい。それはとても自然な希望だ。
普段は膝詰めで話すことなどない家族それぞれの死生観が「父の今後」というトピックで鮮やかに噴出する。
そこでふと、この議論に本人を入れていないことに気づいた。父は意思を示せる状態であるにもかかわらず、そして父自身の命なのに、家族が無自覚に主導権を握っていたのである。