2024年12月4日(水)

オトナの教養 週末の一冊

2023年5月21日

 浮世離れした世界の住人である少年は、それだけで一目置かれており、私もまた、友だちと隣のクラスに少年の姿を見に行った。しかも彼は、わずか1カ月ほどで別の町へと越していった。まるで風の又三郎だった。

二度と帰れない
懐かしい場としてのサーカス

 そして本書は、そんなミステリアスな〝又三郎たち〟のリアルな人生へと切り込んでいく。夢のような舞台のバックヤード、あるいは、テントの外の社会で繰り広げられる人生。道化の世界に魅せられた元芸大生、綱渡り芸人として花咲いた女性、転落死した芸人、女を親友に奪われて団を離れた男、生まれ育ったサーカスという場を失って破滅していく男……。

 逞しく、時に痛々しい生、共同体を失ってもなおも続く彼らの人生へのまなざしは、その内に暮らしたことがある者にしか持ち得ない何かだ。過去の幼い自分へと向けられた暖かなまなざしを確かめながら、個々の人生に深く分け入っていくのである。

 今では、当時の自分と同じ年頃の子の父となった著者にとって、それは今だからこそ書くことができ、同時に必要な旅だったのかもしれない。

 配膳係としてサーカス団で子供と暮らすことに決めた理由を、母は、ある時突如、こう告げたそうだ。

「サーカス団に私が行ったのは、小学校に入る前のあなたにほんの少し、子供らしい時間をプレゼントしてあげたかったからだったのよ」

 その突拍子もない決断によって、著者の暮らしは一変する。気詰まりな東京のアパート暮らしから、2カ月毎に各地を巡る旅の暮らしへ。そして母子だけの生活から、「旅する芸人たち、くわえタバコの舞台職人、売店のおじさんや炊事班の姐さん、動物たち……」と同居する大所帯の〝家族〟のような共同体へ。

 その後、バブル経済が、サーカスをさらに大がかりな興行へと押し上げ、やがて娯楽のあり方の変化とともに、そのほとんどが姿を消した。コロナ禍では、世界を巡るシルク・ド・ソレイユさえ、一時、倒産の危機に陥った。

 他者との直接的な触れあいの場が乏しくなっていく社会で、大人たちが本気で他者を楽しませようとするサーカスという非日常は、読者の私たちにとっても、もう二度と帰れない場なのかもしれない。

 もう二度と帰れない場、当時のサーカスのことを、著者は、どんな人をも受け入れ、大人たちの視線が常に子供たちに優しく注がれている暖かな共同体だったと語っている。そんなこの一冊が、シングルマザーとして懸命に息子を育て上げながら、唯一無二の時を与えてくれた母への長い返歌のように思えるのは、私だけだろうか。

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