2024年12月23日(月)

ザ・ジャパニーズ3.0(昭和、平成、令和) ~今の日本人に必要なアップデート~

2021年12月8日

 足元のコロナ感染者数が減少している中で師走を迎え、年末商戦で少しは今年のロスを取り戻せるかと期待していた矢先、オミクロンという新しい変異株の発見に世界が警戒を強めている。また規制の時代に逆戻りか、とため息をつく人。また儲けるチャンス到来と、ほくそえむ人。ビジネスの性質、つまりビジネスモデルによって、コロナという大きな環境変化はプラスにもマイナスにも影響を受ける。

 前回の『「お金の教育」の本質とは何か?』では、日本人のマネーリテラシーについて論じ、その向上には親が子どもに自分の給与水準の変遷を含めた家計の詳細開示が有効ではないかと論じた。今回は、日本人が職業を考える際に、就こうとしている仕事がどのようなビジネスモデルの下に展開されているか、そして我々自身がそれを理解した上で職業選択を行なっているかどうかを考えていきたい。

(Emilija Randjelovic/gettyimages)

「おしごと」って何?

 さて今回も、読者の皆さんに質問をすることから始めよう。あなたは子どものころ、親の仕事について、どの程度詳細に教えてもらったであろうか? また、あなたが子どもに自分の仕事のことを教える場合、どのように伝えるだろうか? 前回の所得水準の議論のベースになる問いである。

 幼い子どもであれば、パパやママは「かいしゃにいっておしごとをしている」と言うだろう。小学生の高学年にもなれば、「〇〇不動産」や「□□鉄道会社」など、自分の親の勤務先の名称が言えるかもしれない。高校生ぐらいになると、営業、総務、人事などという親の所属部署についても認知をするかもしれない。その裏腹として、親が子どもに教えていることは、せいぜいその程度である。そして子どもの方も、業種と職種を区別して理解はしていない。

 「ウチのお母さん、□□鉄道会社に勤めているんだけど、運転士ではないし、駅で勤めている訳でもない。本社に勤務しているんだよね。何してるかわからないけど」とこんな感じだ。

語られないビジネスモデル

 私の親がそうであったように、多くの人は自分の子どもに自分の所属する会社のビジネスモデルを教えていない。鉄道会社なら運賃が、そして不動産会社なら、住宅やオフィスの販売が売上となる。その売上を得るために、鉄道会社は線路を敷き、鉄道車両を購入し、運転士や車掌を養成して電車を運行するため、人を雇って行わなくてはならない。

 不動産会社の場合であれば土地を仕入れ、建築資材を購入して家を建て、そしてそれを販売するということになる。これら一連の流れをオペレーションと呼ぶならば、営業であれ人事であれ、全ての職務はオペレーションを円滑に実行し、そして利益を最大化するための任務であり、その任務遂行の対価として給与がもらえているのである。

 給与が支払われるためには売上が立つことが大前提で、そこから原価を差し引いた金額がプラスであることも必要だ。ほとんどの業種では、売上が立つ前に原材料の購入や人手の確保が先行するから、その支払いに対して金融をつけなくてはならない。これがビジネスモデルである。小学生でも理解できる内容だと思うが、なぜかこのようなことは教えられていない。

 子どもに対して職業のことを教える書物として、村上龍氏が著した『13歳のハローワーク』(幻冬舎)がある。これはさまざまな職業を列挙し概説しているのだが、職種の範囲たるや膨大で、電車の運転士はもちろん、レアメタルトレーダー、日本酒の杜氏、サーカス団員、ホストまでが説明されている。子ども向けの本であるので、「国語が好きな君にはこんな仕事」、「理科が好きならこんな仕事」というように自分の興味のありかに沿って仕事が紹介されている。

 大人になったら自立して、自分で稼いだお金で生きていかなくてはいけない。だからやるのであれば自分が好きな仕事、向いている仕事を選びましょうというのがキーメッセージだ。村上氏の巻頭言は含蓄があり、また農業や医療など環境が厳しいと言われる業界の第一人者がコラムを寄せていて、それらと合わせて読み進めると大人にも学びが多い名著である。ただここで「職業」として紹介されているのは職種や職能であって、その職業の属する業種のビジネスモデルまでは説明していない。

金は汚いものなのか?

 なぜビジネスモデルが語られないのか? ビジネスの目的は利益の最大化であり、そのためには兎にも角にも売上を立てねばならない。つまりビジネスについて語るときには、まず金の話から始めなくてはならないのだ。前回の記事で書いたように、日本人は金儲けの話に真正面から向き合わない傾向がある。「いきなり金の話をするな」「やるべきことをやれ、そうすれば金は自ずとついてくる」と、金が汚いとばかりに避けるのだ。このような考えはDNAに染み付いているように思われ、だから職業について考えるときに自ずと職種・職能のディテールから入り、それらが社会で果たす役割や意義が殊更に強調される。

 そこに自分の適性や興味が合えば、それを錦の御旗に職業を決めてしまう。その職業のもたらす賃金カーブなどお構いなしに。ここにも私は、御恩と奉公の鎌倉時代DNAが作用していることを感じてしまうのだ。つまり、「有難い所領じゃ、くれてやるからせいぜい励むがよい」という鎌倉幕府の言葉と、「社会的に意義のある重要な仕事だ、しっかり頑張れ」と親や大人たちが子どもや若者に対して言う言葉が同じに聞こえてしまうのである。そのDNAは持ち続けていいのであろうか?


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