藩閥勢力との正面衝突は避けつつ、これとの馴れ合いを通じて政友会を発展させ党勢増大を図るというのはまた個人としての原がたどってきた道でもあった。結局、寺内正毅内閣の後に原は首相となる。
政党政治家としての原敬
著者は、全体としての原についていくつかの点に整理して論評をしている。
まず、政党政治家として。政友会に参加した頃は、自説を固執して論争辞せずという人物であったが、総裁になってからは自己の意見を強情に主張して遮二無二にそれを通すようなことはせず、他の者に寛大で耳を傾けるようになった。党内には反対派もいたが、敵の影が薄れるにつれて党を全体として熱愛するようになったからである。
しかしそのため原は、党を熱愛すればするほど利権に接することを辞さなくなった。「官位も与えぬ、金もやらんというのでは人は動かせるものではない」と言って、選挙のたびに1万円を請求すれば1万5000円を与えるなど請求者以上に多くのお金を援助するという風であった。
しかし、原の東京の家は農商務大臣秘書官を辞めた時の退職金で買ったもので、土地は借地であった。来客用の小部屋の座布団はつくろわれたつぎはぎだらけのもので、死後その家を訪れた馬場恒吾は位牌のある小さな部屋の畳がほとんどすり切れているのに「不覚の涙をこぼした」という。「虚飾や金銭的欲望の尠(すくな)い人」であったと尾崎行雄も語っている。
〝富貴は取るにまかす、難題と面倒は自分に一任せよ〟というのが原の同僚に対する態度だった。しかし、徳富蘇峰は〝政治家的に過ぎて経世家的でない〟と評した。「国家の大経綸」というものがないが、「政治家としては近来稀有の雄材」というのである。
原には「過去もなく将来もなくただ現在のみであった」という。徹底したリアリストであり、演説は嫌いであった。すなわち、「原の最大の長所は当面する問題を臨機応変に処理することにあった」。
人間として。私生活を見ると、書物は部門別に書架に配列され、書類は一件ごとに袋に入れた上で内容別に分類して整理棚に配置されていた。自宅にいても常に正座して膝を崩すことはなかった。いつも整理整頓された細かい点まできっちりとした人だったのである。